日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

ファシズム国家、日本

ファシズムなるもの

 先日、『ファシズムの原理』というイタリア・ファッシストの論文集を購入した。

ファシズムの原理 他三篇 紫洲古典 (紫洲書院)

ファシズムの原理 他三篇 紫洲古典 (紫洲書院)

 

  この本は私たちがファシズムにたいして抱いていた幻想を打破するのには最適な一冊である。

 私たちはファシズムをナショナル・ソーシャリズム(民族社会主義)と同等の独裁思想や優生思想だと思い込んでいる。確かに、ファッショ・イタリアはナチス・ドイツと手を組んで侵略戦争を敢行したし、イベリア半島権威主義国家は自滅的な独裁政権を1970年代まで続けた。ひどいところでは、北朝鮮を「ファシズム」国家などと呼ぶ始末である。

 ファシズムはナショナル・ソーシャリズムともボリシェヴィズムとも異なる。むしろ福祉国家思想と同根の思想なのである。

ファシズムの定義①:国家共同体主義

 ファシストたちは自らを反個人主義者と定義する。彼らは西欧における科学革命以後に生じた原子論的、機械的宇宙観に公然と異を唱え、伝統によって彩られる国家共同体という有機体こそが主人であると訴える。確かに、この言はイタリアにおける政治的伝統に則れば、理解しやすいものである。しかし、どうも他の文化圏に属する私たちにとって理解を妨げるようなもののように感じる。少しばかり、日本文化にそった説明をしてみよう。

 まず、ファシストたちの攻撃目標は自由―民主―社会主義(現代では、これに新保守主義再帰自由主義ネオリベラル)も加わる)である。この三者は実現手段の違いはあれど、個人の欲望と幸福の実現のために、国家を手段とする立場である。個人が主であり、その集合もしくは道具が国家である。

 ファシストたちはこれに異を唱える。アリストテレスが示したように、人間はポリス的動物である。人々は歴史が連綿と編んできた文化(フーコーのいう権力)のなかに埋没してこそ、人間としての真価を発揮する。ここにおける国家とは、日本においては「世間」と呼ぶのが相応しかろう。人々が生きていく上で活用しているコード(言説)の数々、その集合体(言表)こそが主体であり、個人こそが従なのである。

 この観点に立てば、1990年代以前の日本はすさまじく「ファシズム」である。例えば、就活においては何よりも学歴と振る舞い(ハビトゥス)こそが重視され、人々はそれをこなすことで職と名誉を得ていた。現代においては、その上に、自由―民主―社会主義的な「個性」なるものが追加され、実質的な振る舞いを要求しているのに、個性を求めるなどというてんで不思議な状況になっている。

 ナショナル・ソーシャリズムはそれに非常に酷似しているが、彼らが重視するものは「民族」である。民族の純潔性こそが重視され、民族に穢れを持ち込むものは徹底して遠忌される。民族の純潔性さえ守れればそれでよいのであり、実質的な繁栄などは副次的効果に過ぎないのである。この思想は革命の純潔性さえ守れればよいとするボリシェヴィズムと非常に酷似している。今の大韓民国北朝鮮はその愚を突っ走ている。

ファシズムの定義②:国家コーポラティズム

 コーポラティズム、左派活動家によって散々、傷つけられきた言葉である。これは単なる労使協調ではなく、社会全体で最適な生産活動を充実させるために、資本の流れをコントロールすることを意味する。まさにこれは「護送船団方式」そのものである。この思想はアメリカなどにも存在しており、ニック・ランドは中間層が「コーポラティズム」に走るさまを「ファシズムだ」と批判している。

 しかし、アメリカにおけるコーポラティズムとは、単なるコーポラティズムである。個人の欲望と幸福を叶えるために、政府に経済への介入をお願いするだけである。ファシストの提起するコーポラティズムとは、「国家共同体の保護のため」である。人々は世間という伝統を保持するための重要な要素であり、無論、当たり前であるが余裕がなければその保持に興味を示してくれるわけがない。読者だって、経済的余裕がなければ、自治会に参加したり、地域のお祭りに参加したりなどしないだろう。

 ファシストはその保護を目的として、資本家に「コーポラティズム」を要請する。言うなれば、世間のためのコーポラティズム(経世済民)である。地元の中小企業という細胞のために、地元の金融機関という毛細血管を保護する。各企業内に共済組合を指揮させて、職員の福利厚生を向上させる。このような活動こそがファシストのいうコーポラティズムなのである。

 一方、ケインズ主義やナショナル・ソーシャリズムは、片や経済の発展のため、片や民族の福利厚生のために、軍事産業によるカンフル剤的なやり口を肯定する。確かに、ケインズ自身やナチス左派はかような在り方を否定するだろうが、実態としてそうなっている。

ファシズムの定義③:塹壕的連帯感

 ファシズムのもっとも見えやすい側面である。伊坂幸太郎は『魔王』においては、「ファシズムとは残念ながら行動である」などという間違った台詞を主人公に吐かせている。これは日本人たちが抱く間違ったファシズム像そのものだろう。ファシズムとは、行動によって洗練されていく実践的な思想であると表明できる。

 そこで重要になってくるのが、連帯感である。ファシストたちは、第一次世界大戦の最中、塹壕において生死をともにする兵士たちとなったことを通じてこの感覚を会得した。そして、郷里に戻り、国家が急速に軟弱する状況下で、大衆を組織化する過程でこの感覚をさらに強化していったのである。この感覚があったからこそ、上記の定義を理解できない人々さえ、ファシズムに熱狂したのである。

 これだとおそらく理解できないので、日本文化にあった説明をする。皆さんは苦しい思いをしたことがあるだろうか。それは部活でも、就活でも、仕事でもなんでもいい。そのなかで、ともにその苦しみを生き抜き、支え合ってきた人々がいるはずである。後ろから銃撃するような無能のことは言っていないので注意してほしい(この手の話をすると、すぐにこういう反証を上げてくるヒステリックな人がいる)。そのような人々とは、その仕事から離れた後でも時々、呑みに行ったりするだろう。これが塹壕的連帯感である。

 ファシズムはこれを日常生活において、演出することを重視する。簡単なことを難しくするのではなく、達成不可能ギリギリの目標をあえて設定することで、人々は有無を言わせずに団結させて、その闘争のなかで団結感を醸成する。その団結によって、世間はより強化され、人々はより生き生きとする。これを目的にしていないのが重要な点であり、あくまで国家共同体を保護するための手段なのである。

 ナショナル・ソーシャリズム、ボリシェヴィズムはこれを自己の目的のために、人々を死に追いやるという形で悪用する。民族の繁栄もしくは純潔性の護持、または革命の完遂のために、人々を平気であの世に追いやる。そして、自らはその成果を無償で味わおうとする。これは自由―民主―社会主義においても同様であり、兵士たちがPTSDに苦しむなか、ウォール街は戦争ビジネスの金で金融資産を形成し、アメリカ国民はピザを嗜む。

福祉国家とはファシズムの成功例

 ここまで語ってきた三要素は兼ね備えた政体がある。福祉国家である。福祉国家とは、国家の機能を安全保障や治安維持などに限定するのではなく、社会保障制度の整備を通じて国民の生活の安定を図るものである。その目的とは、何よりもまず社会の永続性の保障であり、国民はフーコーの示したように社会の永続性のための道具となる。

 福祉国家の成功例といえば、日本とスウェーデンだろう。この両者、トッドの家族類型論によれば、直系家族に属するものである。また、日本とユダヤがいとこ婚に寛容なように、スウェーデンも寛容なことから「内婚制直系家族」と表現することができる。内婚制直系家族とファシズムの親和性は高いのである。この二か国においては、ファシズムが結実したことは歴史の必然であるといえる。

自己啓発本を読んでも意味がない理由

立ち読みをしてみると

私はよほど一目惚れした本以外は基本、立ち読みを数ページしてから買う。いや、だいたい買ってる本は一目惚れして買ってるので、立ち読みをするような本は買う価値はないということになる。

雑誌、小説、新書……等々を立ち読みしてきたが、その中でも群を脱いで買う価値がないと思ったのは「自己啓発本」である。

自己啓発本はポエムである

よく哲学書自己啓発本の類いだと思い込んでいる人がいる。そういう人に声を大にして言いたいのは、自己啓発本哲学書では、その成立背景の深さが異なることだ。

自己啓発本、ここでは具体名を挙げることを避けるが、とある哲学者の著作の要約集などは基本、その哲学者しか登場しない。もっと言ってしまえば、その哲学者を通じて自分の思想を語らせているに過ぎない。

例えば、「アドラーはトラウマはないと言った」とその著者が紹介したとき、そのトラウマの定義とはなにかという話になる。PTSDなのか、それとも過去のとらわれなのか、それともまた別のなにかなのか?基本、自己啓発本はそのような明確な定義なしに進むことになる。そのため、その語のほとんどは無意味なフレーズの連呼に終わり、そこに学びは一個もない。

一方、哲学書。例えば、『ツァラトゥストラはかく語りき』などの自己啓発本扱いされるものがある。しかし、『ツァラトゥストラはかく語りき』はニーチェの研究してきた古典文献学の学識が多分に含まれており、プラトンキリスト教、仏教などのさまざまな思想にたいして方向性が開かれている。

また、批判書、批判論文が多数、発表されているのも大きい。ある哲学者の意見について疑問に思ったとしても、CiNiiを活用したり、書店をもう一度訪れることで、新しい知見を得ることが可能になる。

自己啓発本は「閉じられ」、哲学書は「開かれている」

謂わば、自己啓発本は自らの世界のなかに安住している。よく自己啓発本の販売手法のことを「バイブル商法」などと言われることもある。これは言い得て妙である。そこで批判の矢面に立たされる聖書でさえ、キリスト教諸派の進学論争に立たされ、常に定義が変わっているのだから余計に始末に負えないが……。

自己啓発本の目的はあなたを信者をすることにある。信者に追い落とすことによって、自分の著作をまた買わせる、または自分の商品を買わせることが連中の狙いである。

一方、哲学書は単なる物好きが書いたものである。意見を闘わせ、議論し、その結果、沈思黙考したものを「紙の上に錬成せざるを得ない」連中が書いたものである。だからこそ、自己啓発本を手に取るよりかは哲学書を手にとってほしい。その上で、作者と議論を重ねることで更なる学びを得ることができるだろう。

ディストピアもの私論―不都合な日常と私たちの違和感―

BIG BORTHER IS WATCHING YOU

 今日は自転車で近所のカトリック教会を巡ってきた。何かブログのネタを探そうとも思ったが、特にそれらしきものは見つからず、約3時間・約20kmのちょうどいい運動にはなった。しかし、帰宅したときに善き便りを友人が送ってくれた。


【全部私の声】Big Brother / 平沢進

 セリシア兄貴姉貴の動画である。この友人、養護施設職員で現在抑うつで休職中なのだが、もともとは合唱部、アカペラと歌の分野に生きてきた人なのである。そんな友人が選ぶものが酷いわけがない。その期待通り、素晴らしい作品だった。

ディストピア小説とは?

 セシリア兄貴姉貴がカバーした作品『Big Brother』は、ジョージ・オーウェル著『1984年』をモチーフにした作品である。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

  しかし、この小説、というかディストピアもの自体が勘違いされている節がある。ディストピアものは『少女終末旅行』のようなポストアポカリプスものでもないし、『日本「人民」共和国』のような反共主義の宣伝小説でも、コズミック・ホラーではない。いわば、日常懐疑、私たちが何ともしないものを疑う小説なのである。

 ここでこれから述べることを完結にテーゼとしてまとめておこう。

 ①ディストピアものの主眼は制度である。

 ②ディストピアものは反体制の寓話である。

 ③ディストピアものに主人公は存在しない。

ディストピアものの主眼は制度である

dasun-2020.hatenablog.com

 『ヨルムンガンド』のときにもさらっと紹介したが、小説には作者の意図があるというのが私の主張である。テクスト論ではなく、明確に作者論に立つ。『ヨルムンガンド』では、物語の最後半に、武器商人ココは全世界の情報を自由にできる権能を手に入れ、全知全能の女王として君臨する。しかし、ここで描かれる世界は別にディストピアではない。ここで描かれる世界はあくまで女王ココと人間ヨナの対立であり、彼女たちの再会という「ボーイミーツガール」ものである。

DEATH NOTE モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

DEATH NOTE モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 同じことが、『DEATH NOTE』でもいえる。『DEATH NOTE』の後半では、キラによる全世界の恐怖政治が完成している。これを指して、「この漫画はディストピア小説の側面があり……」などと知った顔で述べる専門家がいるが、まったく分かっていない。『DEATH NOTE』の主眼は「キラとLの知的バトル」ものである。前半では、ごく普通の日本でキラとL本人が、後半では、(キラにとっての)理想郷となりつつある世界でのキラとLの後継者(ニアとメロ)による知的ゲームが繰り広げられる。この物語はこの知的ゲームを楽しむためのものであり、それ以外の要素は知的ゲームを彩るための「飾り」に過ぎないのである。

華氏451度〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

華氏451度〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

 

  それにたいして、『華氏451度』の主眼は制度である。私たちが今、生きている社会。渇望することで、検索することですべてが手に入る社会。そして、それを求めるあさましい人間そのものである。『華氏451度』のあらすじは以下のとおり。

 『華氏451度』の主人公ガイは、焚書を担当するファイアマン(昇火士)である。彼の生きている社会では、火事というものはほぼ起こらなくなり、自分の追い求める快楽はすべてテレビを通して手に入るようになっている。彼はその社会に疑問を持っていなかったが、ある時、隣に引っ越してきた少女クラリスと出会ったことにより、焚書するために集めていた本を読み漁るようになり……。

 ここだけを読めば、ただのボーイミーツガールものに見えるかもしれない。しかし、この話の本筋は、個々の描写そのものである。危険を感じられるように改造されたスーパーカー、壁そのものと一体化しそこに自分の映したいものを映せるようになったテレビ、どこまでもいつまでもつづくバラエティ番組。それによって描かれる快楽のための知の放棄とその狂気、それを彩る制度そのものこそが、この作品の主題なのである。

ディストピアものは反体制の寓話である。

AKIRA(1) (KCデラックス)

AKIRA(1) (KCデラックス)

 

  『AKIRA』の世界もまたネオ東京崩壊前、崩壊後ともに、理想郷とはいいづらい社会である。人々は退廃し、腐敗し、そして無気力になっている。そういう社会だからこそ、敷島大佐はクーデタを起こし、金田少年はバイクを乗り回し、気に入らない相手を殴りつける。自らの拳を扱うことによって、社会に風穴を開けようとしているのだ。ここだけを見れば、『AKIRA』も反体制の寓話ということができるだろう。

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

  ディストピア小説の主眼とする反体制は、そことは異なる。ディストピアものの主眼は「制度」である。人々を取り巻き、そしてその行動を担保する制度、それがディストピアものが描きたいものである。

 『ハーモニー』の主人公の一人、霧慧トァンはWHOの上級監察官である。彼女の生きる社会は生命主義という人類の生命の健康を第一とするコレクトネスに支配されており、それに合わせて「Watch Me」なる常時健康監視アプリケーションが人体にインストールされている。これを人体に導入することで、人類は病気から解放され、誰もが綺麗で美しく生き生きとした生活を営めるようになっている。彼女はその社会において、生命主義の立場から発展途上国を支援し、紛争を解決する現代の「平和維持活動軍」の指揮官のような仕事に就いている。

 実の彼女は健康そのものではない。万病のもとである(正確には、生命主義の教義においては「そうされている」)飲酒、喫煙に手を出し、それを「Dummy Me」なる違法アプリでだましている状態にある。彼女は体制のなかに存しながら生粋の反体制なのである。

 しかし、これだけでは単なる健康優良不良少年と変わらない。彼女の反体制はその精神まで深く刻みこまれている。それには、もう二人の主人公、御冷ミァハ、零下堂キアンが必要不可欠となる。

 御冷ミァハ、物語の当初は「自殺している」。彼女は生命主義にとても挑発的な人間で、社会をうまくハッキングしながらそれに反する活動を行っていた生粋の危険思想家である。霧慧トァンは学生時代に彼女と出会う(この時点でもう一人の主人公、零下堂キアンと出会っている)。彼女たちは御冷ミァハに心の底から心酔し、集団餓死を決断してしまう。まあ、その集団餓死自体は失敗するのだが、彼女たちが死んだとき、彼女たちに御冷ミァハという意志がそのままインストールされてしまったのである。そのまま彼女たちは大きくなり、片や世界を飛び回るエリート、片や世界を守る一般市民となったのである。

 ディストピアものの金字塔『1984年』において、高級幹部党員オブライエンは主人公ウィンストン・スミスを拷問に掛けながら、「私たちは形だけの服従を望んではいない。心からの服従を望んでいる」と語りかける。ここにディストピア小説における反体制の意味が凝縮されている。ディストピア小説の描く反体制とは、「精神的なレベル」にまで刻みつけられた反体制の精神そのものなのである。

ディストピアものに主人公は存在しない。

 ここまで来てようやく『1984年』に戻ってくる。『1984年』がドラスティックに描いているが、ディストピアものに主人公は存在しない。語り手たちは、ディストピアそのものを観察するためのレンズであり、反体制という精神そのものの寓話なのである。

 『1984年』の語り手ウィンストン・スミスは、世界を支配する三大国家の一つオセアニアの真理省職員である。彼は記録局という「歴史改竄を主務とする部署」に勤めており、日々自らの仕事の意味に疑問を抱きながら熱心にこなしている。ある時、彼女はジュリアという女性と出会い、国家に公認されない恋愛という反体制的な行為を始めてしまう。

 ここまで書いてきたが、この小説の主眼は別に彼女たちの恋愛物語にはない。逮捕以降の再教育の過程でもない。ウィンストンが観察し、思考するすべてである。ウィンストンはどうも物事を深く考える質の人間らしく、「思考犯罪は思考した時点で終わり」だの、「自分の身体をすべてぶち壊しにするような捨て鉢の勇気がないから、ここまで生きてきてしまった」などなどいろいろなことを考えている。また、後々、蒸発してしまう同僚サイムは自分の仕事である「言語の絶滅」という行為について嬉々として語ってくれる。

 そういう日常のふとした一コマにこそディストピアの反理想郷性は凝縮している。彼が拷問を受けている最中に、「私には『2+2=4である』という自由がある!」というと、すぐさまオブライエンが「いや、そんなものはない。党が2+2=5といえば、5なのだ。」というところにオセアニアの自由のなさが、サイムが嬉々として言語の絶滅を語るときに、「ああ、こいつ蒸発させられるな」と思うところにオセアニアの薄情さが、「思考犯罪は思考した時点で終わり」と独り言ちる瞬間にオセアニアの絶望が顕れている。むしろディストピアものとは、そのような日常生活を送っているときに感じるふとした違和感を書き留めるために存在しているのである。

ディストピアものとはおかしな日常である

 ディストピアものとは、おかしな日常を描くものである。ジョージ・オーウェルは1948年に赤狩りが横行する「自由主義社会」イギリスを見て『1984年』を書いた。伊藤計劃は病院において、あまたの管につながれ、自らの生がパッケージ化されて、規格化されたものに変わっていく瞬間を見て『ハーモニー』を描いた。他の小説家たちもふとした違和感を記した結果、所謂ディストピアものとなっていったのである。

 この性質は、他の創作物とは一線を画するものである。例えば、ポストアポカリプスものにおいては、主眼はポストアポカリプス(終わった世界)ではあるが、そこで描かれるものは終わった世界を賢明に生きる人々である。私小説などと似ている部分もあるが、そこで描かれるのは全体的な生そのものであり、違和感ではないし、フィクションになることもない。

 ディストピアものとは、人々が普段生きている日常を作者の目線からスライスし、その奇妙な部分、恐ろしい部分を切り出す一種の凶器(狂気)なのである。

『ヨルムンガンド』と見果てぬ夢

ボーイミーツガールからの脱線

―――僕は、武器商人と旅をした。

 『ヨルムンガンド』は、上記の台詞が露骨に示しているように典型的なボーイミーツガールものである。少年兵ヨナは、武器商人ココとそのファミリーたちとの出会いから人間的に成長していく。ジブリ作品の本質がその執念深いレベルまでの日常描写だったのにたいし、この作品の本質はまさしくこの核にある。戦闘も、武器も、味の濃い敵たちもすべて、少年兵ヨナと武器商人ココの人間的成長を強調するためのスパイスに過ぎないのだ。

 しかし、この作品は後半から急速に脱線していく。話の筋は少年兵ヨナと武器商人ココから、世界とココに移っていく。それはココの本質に関わるものだからだ。

夢追い人ココ

dasun-2020.hatenablog.com

  ココはINTJである。彼女には世界が見えすぎる。しかも、先が見えてしまう。INTJの主機能は内向直観(Ni)である。内向直観は物事のまだ見えないつながりを何となく見抜き、その世界の本質を垣間見てしまうものだ。それを外向思考(Te)という補助機能が補佐するものだから、世界のルールに基づいた形でそれが見えてしまう。そうなった人間は、それで見えた世界の実現に奔走する。

 例えば、『メイドインアビス』の黎明卿ボンドルドはまだ見果てぬ深淵に人類の希望を見出し、その実現のために多くの子どもたち、同志、果てには自分自身でさえ犠牲にした。ニーチェは自らの言語的なセンスを信じて、来たるべき新人類を「超人」として霊感的に描写した。マルクスは『資本論』という現代の経済学の根本になっている著書を書き上げ、同志たちとともに「労働者による理想社会」の実現のために奔走した。霊感的に見えた未来、それの実現のために理性をもって暴走するのがINTJの性である。

 ココは変らぬ世界、そして武器商人という穢れた世界に辟易としていた。普通ならば、私の大学の先輩のように、吉良吉影のごとく平穏に生き延びることを選択しただろう(その典型例が後半での対立相手になるブックマンそのもの)。しかし、彼女はヨナに出会ってしまった。戦争という実態の究極に触れ、それに歪められたような少年。しかし、彼は兄弟たちを見捨てることなく、自らを犠牲にすることを選択している。その時、彼女には見えてしまった、人が大事なものを失わんとするために平和を模索する未来が

ヨナの未来のために暴走するココ

 彼女はその時、人々から「空」を奪うことを決断したのだろう。それ以後の行動はまさに加速主義的なものである。

 そもそも、加速主義の提唱者ニック・ランド自体もおそらくINTJである。加速主義とは、袋小路に入り込んでしまった人類、資本主義を救うために、むしろ資本主義の自己破壊作用を極限まで利用するという立場である。技術革新を進め、資本化を進めることによって、人類の枷を破壊する。具体的にいえば、遺伝子操作技術をもって人種間の壁を破壊し、グローバル化を推し進めることで企業、個人を制御していた国家を破壊する。競争を極限まで進め、その毒をもって競争そのものを無効化する。そして、その先には、ニーチェ的な超人が誕生し、この世界を逸脱して人類に新しい次元をもたらすのである

 彼女は、自らの資本力をもって世界最高峰の電子工学者等を次々と拉致し、量子コンピュータというおもちゃを与える。学者連中は基本、自分の研究さえできていれば満足なので、そのままどんどん技術革新を推し進める。そして、完成したヨルムンガンドシステム(量子コンピュータと衛星監視システムの総称)は世界の情報すべてを支配する。米軍の情報部を愚弄し、彼女を篭絡させようとしていたブックマンを逆に篭絡させてしまう。彼女は情報を支配することを通じて、世界から逸脱しようとしのだ。彼女は実に加速主義的な人物なのである。

 実は、彼女にとって「空を奪うこと」、70万人の死者を出すことは畜群に支配を宣言することのデモンストレーションにすぎない。大事なのは、「いつ如何なる時もあなたの命を奪うことができる」というメッセージなのである。超人となった者は死んだ神の座に就く。そのことによって、戦争を指導しようとする連中を目覚めさせることが目的なのである。

反逆者たち

 しかし、彼女の計画は早期に破綻することが目に見えている。人は塀を目の前に造られるとそれを乗り越えたくなる。マルクス主義が造り上げたベルリンの壁はベルリン市民によって壊され、ニーチェが提唱した超人の概念はナチスを産み、ナチスは連合国の物量の前に滅ぼされた。INTJたちには残念だが、彼らの見果てぬ夢は一般人には重すぎるのである。

 ココも計画の完成間際からしっぺ返しを食らっている。

 この計画をキャスパー(ココの実兄)に話したときには、「飛行機が売れなくなったら、戦車を、戦車が売れなくなったら……」とどこまでも一般人の欲望は途切れない話をされる。キャスパーはENTJであり、何よりも現実のロジックを重視する。そのために、彼には超人の造り上げた秩序をどのようにすれば、凡人の欲望をもって破壊できるかが分かってしまうのだ。

 これは予想通りだったと思うが、ヨナにこの計画は拒絶されてしまう。彼女が愛玩し、何よりも救済対象として見なした人物は美しくも危うい世界を受け入れることはできなった。ココは人間の強度を見誤った。人間はココほどに絶望はしていないし、ココほどに強くはないのである。そして、何よりも他者を信頼しているのである。そんな他者の入らない世界をヨナは認めることができなかった

 ココは拒絶された瞬間、びっくりはするが、それを受けいてしまう。ここまで反発が来ること自体、織り込み済みだったのだろう。しかし、同じ人間が分からないISTPから言わせてもられば、「もうそれがダメ」なのである。そもそも、誰かを救いたいシステムならば、その誰かが受け入れるシステムじゃなきゃ意味がないだろう。ここでココとヨナは決定的に決別する。

もう一度、ヨナは武器商人と旅をする

 ここで終われば、イカロスの神話と同じである。この話がどこまで行ってもボーイミーツガールものであるのは、ここからである。この後、ココは全知全能ともいえる権能をもって、世界を支配するための計画を推し進めていく。ココは良くも悪くも変わらないし、変われない。

 しかし、ヨナはその後、キャスパーのもとに身を寄せる。そして、キャスパーのもとでようやく愛玩物から対等な個人としての地位を手に入れ、個人として成長していく。チェキータはESTPだが、彼女はヨナの教師、庇護者としては適任だった。彼を優しくも厳しくしつけていくことで一人前の男にしていくのである。

 そして、最後、キャスパーはヨナを一人前の大人として認める。これは愛玩物としてしか見ることのできなかったココには出来ないことであった。それが故に、彼の「ココのもとに戻る」という意志を認め、あえて対立するのである(チェキータは子離れできない母親のように悔しがるのがまた面白いシーンである)。

 彼は最後に、一人前の大人(他者)として対等の地位でココに対峙する。ココはそれすらもすべて分かったうえで受け入れる。だからこそのあのラストシーンなのである。少年兵ヨナは、武器商人と旅をした。そして、ヨナ個人もまた武器商人と旅をしていくのである。

余談:ISTP的ヨルムンガンドの感想

 まず、世界を完全支配するというシステムなんて持つわけないというのが素直な感想である。人間(正確にはISTPなのだろうが)は塀を見たら、登りたくなる。規制を布かれたら、気づかれないように破りたくなる。タスクがあれば、解消したくなる。ココのシステム(同時にマルクス主義ニーチェ思想、新反動主義)には、人間がいない。人間がいないシステムは人間に壊されるのがお似合いである。

 話の筋としては、まあ無難なボーイミーツガールものだよね。好き。それに狂人の暴走を加えることで話に多重性を与えるあたり最高。人間ドラマって甘ったるいものばかりじゃねえぞってのが示されてていい。まあ、登場人物の大多数がSTPとNTJしかいなくて殺伐としてるけどね。

 ココは可哀想な人なのである。バルメはココの崇拝者だし、レームは煽るだけ煽るタイプのおっさんだし、他の人たちも家のなかで花火をぶっぱなすようなことを嬉々としてやる連中だから、対等なのも止める良識ある大人もいない。対等に対峙するブックマンも同じINTJであるがために、やさしい世界を見せられたらあっという間に篭絡させられちゃった。物語後のココが心配。ヨナは大人になったけど、彼は世界大衆がなんていうタイプじゃないからね。

なぜこうも私を怒らせるのか

平泉澄日本会議

今日の私は少しブチキレそうである。私は郷土史をこよなく愛し、その史的成果を重んずる人間である。要するに、その地に染み着いた信仰や風習から垣間見る歴史を楽しんでいる。

だが、そういうのを徹底的に否定するバカがいる。所謂、皇国史観、正確には「国史」派である。彼らは天皇中心に描かれた歴史、自民族中心の歴史のみしか認めず、辺境に消えていった人々をことごとく軽視する。その素晴らしい事業については、過去の記事でいくつか紹介している。

連中がまた北海道の多重性を愚弄したのでブチギレそうなのである。

縄文人アイヌ人?

えっ!明治以前の北海道って、日本じゃなかったの!?|日本会議北海道本部

上記の記事は、日本会議による北海道総合博物館への公開質問状である。私はこの質問状を見た瞬間に頭を抱えてしまった。浅薄極まりない知識で「郷土史」なる神聖な領域に土足で踏み込んでほしくないものである。あなた方だって、護国神社に英霊をたいして信じていない私が土足で上がり込んだらブチギレるだろう?

問題点① アイヌ縄文人

まず、私もアイヌ民族琉球民族、そして大和民族は同一祖先を持つ集団であることを肯定する。それはハプログループの研究などからも明らかである。

しかし、大和民族の何割はアイヌ民族よりも中華民族朝鮮民族のほうが近く、天皇陛下が長らくお治めになっていた近畿地方がいちばんその血が薄いではないか?

また、日本文化においては、縄文時代の後、弥生時代で農耕が始まっている。一方、アイヌ民族縄文時代かはそのまま狩猟採集交易の続縄文時代につながり、アイヌ時代という日本からみれば「特異的」な時代に移行している。また、続縄文時代からアイヌ時代の間に、オホーツク文化なるオホーツク海を中心とした文化圏とも交流があったことは特筆すべき事項だろう。

つまり、アイヌ民族縄文人は別物だし、アイヌ民族大和民族も、アイヌ民族と日本人も別物である。

問題点② 北海道は日本固有の領土

連中は明治以前から北海道は日本固有の領土もしくは日本の勢力圏であったと主張している。ここでいう日本を、蝦夷安倍氏松前氏などを含む現在は「日本政府の属する領域」の勢力圏が有していたというのであれば正しい。

しかし、彼らは本当に北海道を領有していたという認識はあったのか。答えはNoだろう。彼はあくまで中世的な感覚における交易圏としてのみ北海道を領有していたのであり、領土としての認識はなかった。正確にいうならば、明治政府、控え目にいって江戸幕府末期になってはじめて北海道は日本の領土として認識され、編入されたのである。

問題点③ 植民地近代化論

ならば、私たちは再度問い直さねばなりません。仮に、アイヌのそれら原始的習俗が彼らの伝統文化だとして、近代国家に生きる私たちがなおそれらを許容し尊重すべきなのかと。そして、現代日本人は、アイヌを一方的に加害、抑圧した先人の子孫なのかと…。答えはあまりにも明白でありましょう。

答えは明白に「アイヌ民族の文化と生活を奪った」である。江別対雁における榎本武揚を中心としたアイヌ民族強制移住事業を上げずとも、明治時代に和人たちは北海道に先住していたアイヌ民族から二束三文で土地を取り上げ、文化を奪い、彼らを経済的に不利な地位に叩き落としている。

確かに、猟師として生き残ったアイヌなど逞しい生存例はあるが、アイヌ民族のほとんどは強制的に同一化されながらも、経済的苦境に立たされたと言ってよかろう。

平泉澄の皇国土観

なぜ連中はこうも実態は直視できないのか?それは国史派が信仰する一つの真理がある。

千島は、とくにそこの歴史に言及はせずとも、日本の領土であることは自明視されている。ましてや、古代に朝廷に帰順した「北地」=北海道を、日本の領土であると平泉が自明視していたことは尚更であろう。

平泉澄と沖縄・北海道 | 玲瓏透徹

それは日本神話に描かれたことを事実として認めることである。「日本神話、国史においてそう書かれていたから正しい。」と連中は盲信しているのだ。だからこそ、郷土史を通して見える歴史の実相を誰も直視しない、できない。それは「正しいものは正しい」というトートロジーに支配されているからである。

じゃあ、お前はどうなんだ

私は大和民族による北海道の植民地化を止む仕方ないものとして見ている。というか、そうやって見ないと、私がここにいること自体が罪になってしまう。そもそも、史実にたいして何が悪い、良いなどと現代の感覚から善悪を押し付けること自体が間違いである。

物証、そして傍証から分かる事実にたいしては絶対、沈黙してはならない。しかし、同時にそれはもう起きてしまった事実だからとやかく善悪を問うこと自体がナンセンスなのである。

どうしてそれが分からない?だから、私はお前らやそれにたいする左派史学者連中をネトウヨ、パヨクとバカにするのだ。

『風立ちぬ』と日常

ジブリ映画が好きな私

 私の親はジブリ映画が好きな人で、かくいう私も幼少の頃からジブリ作品を見てきた。小学生までは、『となりの森のトトロ』が好きだったし、中学生になってからは『ハウルの動く城』、『魔女の宅急便』が大好きだった。特に、『ハウルの動く城』は声優自体は好きではないが、ソフィー、ハウルマルクルなど所々欠陥を抱えていた主人公たちが日常のさまざまな問題を乗り越えていく様が生き生きと描かれていて、いい。

 そんな私のジブリ作品不動のNo.1を軽々と超える作品が登場した。『風立ちぬ』である。

芸術至上主義の『風立ちぬ

 『風立ちぬ

 さまざまな方面で議論を呼んだ問題作である。喫煙、戦争などさまざまな問題を抱えている作品ではあるが、この作品の本質は『芸術至上主義』である。この部分については、下記のブログの一文がそれをよく表している。

風立ちぬ』という映画は、さっと表面だけ見ると「不安定な時代を生きた、天才技師である男と病を抱えた女の恋愛物語」ですが、良く見ると「美しさを追い求めることの残酷さ」を描いた映画です。

sombrero-records.note(最終閲覧日:2020年1月31日)〈https://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdcece

 芥川龍之介が『地獄変』で描いた表現者としての本能、その言葉にしてはならないアンポリティカル・コレクトネスな部分を宮崎駿はこの作品で暴露したのである。今日はその暴露の本質について分析していきたいと思う。

美しいものにしか興味がない堀越二郎

 主人公、堀越二郎は薄情な男である。さきほど引用したブログにも傍証が描かれていたが、妹が訪ねてくるのを忘れる、病身の妻を労わることをしない等々、冷静に見ればとてもひどい男である。しかし、彼の本性はもっと別のところに現れている。それは彼のレンズから他者の内面をうかがい知ることができない点だ。

 従来のジブリ作品において、主人公とはレンズであった。それは『風立ちぬ』においても変わらない。私たちは「堀越二郎」というレンズを通して、1920~1940年代という時代を追体験しているのである。

 例えば、『天空の城ラピュタ』においては、パズーとシータという二人のレンズを通して物語は進められていく。映画の最初、パズーから見れば「悪者」であったドーラ一家は悪者として映り、その後、協力者としてより良き「大人」となったドーラ一家は滑稽な息子たちと豪快ながらも女性らしい気づかいを滲ませる母、そして頑固な父という人間味あふれる人々として見えるようになる。シータから見たムスカ大佐も最初は「ただの不気味な紳士」であったが、物語の後半には、もう一度世界の「王」にならんとする「狂人」として描かれるようになる。彼らのまっすぐなその瞳は他者たちの内面の一面をたしかに描き出すことができるのだ。

 一方、二郎である。彼の目に広がる世界は常に「美しさ」に満ちている。幼少期の読書からは「美しい」飛行機を飛ばす夢にトリップし、学生時代に助けた女中の「美しさ」がその眼にフラッシュバックされる。今までのジブリ作品が得意としていた日常描写はその脇に置かれ、同僚たちとの飛行機の「実用美」にたいする熱い議論がクローズアップされる。彼の目に見えるのは、貧しい子どもたちでも病身の妻でも日常に引きずり戻してくれる妹でもない。ただただその時代にある美しいものなのである。

 だからこそ、本来、病身で衰えていく妻の姿は美しいままであり、1940年代の美しくない戦時中の描写は徹底的に捨象される。彼は人間らしい気づかいができないから人でなしなのではない。彼はただ『地獄変』の良秀のごとく、美しいものしか目に映らないからこそ「人でなし」なのである。

宮崎駿の内面表明

才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました。

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  ブログの作者は批判的な意味で、宮崎駿の芸術至上主義の発露であると表明する。私もこの作品は宮崎駿氏の内面表明であると思う。

 最初、私は庵野秀明を声優として起用することに強い違和感を覚えていた。「『ハウルの動く城』のキムタクで懲りたんじゃないか」と言いたい気分だった。しかし、「美しさ」しか見れない人を演じるのは本当にそういう人でないとできないのである。庵野秀明は後々、『シン・ゴジラ』において「これが僕の見たい特撮だ!!」と開き直りにも等しい意見表明をするのだが、宮崎駿はその感性を知っていたからこそ彼を抜擢したのであった。まったく素晴らしい根性である。

 宮崎駿イラストレーターの地位向上の労働争議にも関わり、『もののけ姫』では環境問題に積極的に意見表明する。いわば、「闘う」監督であった。同時に、兵器をこよなく愛し、塹壕で繰り広げられる闘争精神に魅了された人物でもあった。しかし、彼の闇の精神は直接的には鈴木敏夫、間接的には左翼の「星」にしたいマスメディア各社のイメージ戦略によって捨象され、エコロジーロハスなアーティストの典型としてもてはやされることになった。

 彼の本音は『風立ちぬ』で始めて明らかにされたのである。宮崎駿とは、ただただ美しいものをその目に見えたごとく、そのまま描写したいという芸術至上主義者だったのである。実はこの意見表明はジブリを追うドキュメンタリーで何度も繰り返されてきたのだが、主にNHKの手によって度々捨て去られてきた。

芸術至上主義者の宿痾

 

dasun-2020.hatenablog.com

  私は宮崎駿氏をISTPではないかと踏んでいる。イラストレートにたいする確固とした理論(Ti)を持ち、それを自らの技量と周囲の助力でもって一つのものにする(Se)。そこに推察から得た人間分析をここでもかと盛り込む(NとFeの合わせ技)。ISTP的巨匠のあり方がここまで如実に現れた人も珍しい。

 上記記事にも書いたが、ISTPは現実志向である。この目に見える現実に美しさ、潔さ、素晴らしさ等々を見抜いて、それを完全に引き出そうとする。そのために一切の妥協は許さない。実はこの点において、宮崎駿堀越二郎は一致している。両者は合わせ鏡のような存在である。そして、それを十全に表現できる人物として、彼は『風の谷のナウシカ』の後継者として指名した庵野秀明にやらせたのである。ここまでISTPがその思想を発揮している映画も珍しい。

 たいていの映画はどうしても万人受けとか、ポリティカル・コレクトネスとか、未来志向といったものを重視して自らの狂信的なまでの現実志向を薄めようとする。実際に、これまでのジブリ作品もパズーやシータなどのFe満点の人物を登場させることで薄めてきた。

 しかし、今回、宮崎駿はどうしても「自分の作りたいものを作るために」それを捨て去ったのである。これはまさしく堀越二郎におけるゼロ戦であり、良秀における地獄変であった。「自らの美しいと思ったものを表現せずにはいられない」、芸術至上主義者の宿痾である。

煉獄に手招きする声

宮さんの考えた『風立ちぬ』の最後って違っていたんですよ。三人とも死んでいるんです。それで最後に『生きて』っていうでしょう。あれ、最初は『来て』だったんです。

『風に吹かれて』,鈴木敏夫中央公論社

  とは言いつつも、そこは大衆作家である宮崎駿。あまりにも救いのない物語を変えた部分もある。例えば、『地獄変』の良秀は最後、娘を見殺しにした罪悪感と自らの芸術至上主義の浅ましさから自害をする道を選ぶ。それは芥川龍之介が選んだ美しも残酷な物語の終わりとして、ありうべき終わり方であった。

 本来、『風立ちぬ』も同様の筋書きであった。どこまでも「美しさ」を求めた者は徐々にその気質ゆえに、「美しさ」の狂気に囚われ、ISTPの唯一の基盤である現実感覚さえ失っていく。その先にあるものは、(宮崎駿としては)煉獄である。「来て」と永遠の処女に誘われた傲慢なる魂は煉獄において燃やし尽くされ、浄化の旅に挑むこととなる。菜穂子というベアトリーチェを引き連れて、さながらダンテとベアトリーチェのように。ここにおいて、ずっと二郎を煉獄に誘っていたカプチーニはファウストにおけるメフィストフェレスか。

 しかし、それだとあまりにもポカン展開だし、余計な火種を起こしかねない。そのため、宮崎はあえて「生きて」と二郎を現実に引き戻す言葉に変えた。だから、カプチーニは残念がったのである。「お前の賞味期限はもう切れたのに、もう鮮やかさを持たない現実に戻るのか」と。しかし、それを知らない二郎は晴れやかに「もう少し生きてみます」と告げる。そのラストはもう巨匠としての賞味期限を過ぎたことを自覚している宮崎駿自身にたいする自嘲でもあろう。

日常は終わらない

 逆に考えてみれば、そんなのは当たり前なのである。北海道の友人が抑うつになって休職しようが、コロナウィルスが突然変異して猛威を振るおうが、東北で大津波が起きようが日常は変らない。私たちが非日常だと思っているものは、日常に見知らぬものが挿入されたに過ぎない。レヴィナスのいうイリヤのように。現実を見れば、家だったものは瓦礫となり、フェリーは病院船となり、擁護職員がただの無職になっただけである。しかし、人間はそこにサリエンシーを感じるのである。そのサリエンシーでさえどんどん薄れて、日常と化していく。

 残念ながら、この目が曇ろうが焼かれようが、日常は淡々と過ぎ去ってゆくのである。すべては日常に帰結する。ある意味、これがISTPにとっては究極の煉獄かもしれない。二度と戻らない美しい娘、美しい妻、そして美しい飛行機、映像作品。それをもう二度と獲得できないことを受け入れながらも、その後悔にうなされる。それがISTPにとっての煉獄なのである。宮崎駿は、万人にこの作品を受け入れてもらえるように、あえて最後だけは汚い現実をそのまま描いたのである。

物語が残酷なのは、主人公が残酷だから

 テクスト論に立つ人間に立てば、こんな文章は駄文だろう。逐語解釈はないし、語にたいする厳密な定義はない。しかし、私は作者論に立ち、歌や映像、飛行機、絵画ではなく、何より思考を記述することに美しさを見出すISTPなのだ。これが私から見た『風立ちぬ』なのである。物語が残酷なのではない。作者の偶像たる主人公が残酷なのだ。ピラミッドや意見表明が残酷なのではない。その意志そのものが残酷なのだ。美しいものを追わずにいられないからこそ、分かるのである。

 もっとも残酷なのはISTP自身である。

神を恐れない日本人

郷土史」に興味がない日本人

郷土史、日本においてあまり日の目を見ない学問である。歴史といえば、教科書的に編集された「正史」のみが教えられ、郷土に息づいてきた神話や古文署の解読を通して確認された史実は徹底して軽視される。

この現状は明治政府による意図的な創作の帰結である。明治政府は天皇に従う神のみを正当なものとし、天皇に逆らった人々を大罪人として描いた。その後のGHQの教育改革によって、天皇はそのまま「科学的に分析できる事実」のみにすげ替えられ、郷土に眠る歴史を顧みるものはごく少数である。

科学的な事実=権力にとらわれた事実

フーコー氏の分析するように、学問によって権威づけられた事実というのは、一つの権力によって「正しさ」を与えられないに過ぎない。歴史学者は慎み深いために、その実態にたいして非常に謙虚であり、公理系としてしか歴史を捉えていない。

しかし、世の大衆はそうではない。そのような実態を指摘すれば、「勝者が歴史を創る」などと嘯いて、自分たちのほうが優れているなどとぬかしだす。また、公理系としての歴史にたいして、自分の私見ばかりを綴った物語を「これが正しい歴史です」などと騙って売り出す小説家もいる始末である。

郷土史は神を畏れてきた歴史

そのような胡乱な喧伝にたいして、対抗してきた人々がいた。意外にも、社会科の教員である。どっかの頭の腐れた自称保守派たちは、郷土史の発掘してきた歴史にたいして「左派」的だの、「そんなことは歴史書に載ってない」だの騒ぎはじめる。しかし、文書として、民話として、信仰として遺ってきたものは紛れもない一つの史実なのである。所謂、土着的ともいえるリベラル意識をもつ彼らのほうが遥かに正しく神を畏れ、自称保守派は近場の神社などにはいかず、パワースポットだの護国神社などに行きたがる。

天罰は必ず下る

そのようなことをしている連中は無自覚かもしれないが、必ず天罰は下る。別に私は神など信じていないし、天罰なども信じていない。しかし、台風や地震津波、風土病、流行病は周期性を有するものであり、その解決策や対応策は必ず郷土史に眠っている。自分の足元を知る者は必ず救われるのである。

神を畏れるとは自らを知ること

つまり、私がいう「神を畏れる」とは、自らの足元をよくよく理解しておくことなのである。そのために、一つの公理系としての科学があり、実態があるからこそ科学は意味を為すのである。科学は信仰するものではなく、自分の生活のために利用し尽くすものである。

 

――神を畏れよ、そして日々の豊かさに感謝し、来るべき災厄に備えよ。