日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

「異邦」としての東京

謳われる東京

 1990年代以降、あの日本を破壊したテレビでは「東京」の歌が盛んに謳われた。テレビこそが第二の故郷であり、文化的素地であった僕らにとって東京とはまさしく「憧憬」そのものとなっている。


幽霊東京 / Ayase (self cover)

 人も物も文化も何もかも日本中のものが集まり、多くの人の「憧憬」と「憎悪」になっている東京。たしかに、それは東京の一側面なのかもしれない。東京には日本最大の繁華街がいくつもあり、芸人、芸能人、アイドルなんでも揃っており、すべてがキラキラしている。それは覆しないようもない現実なのである。

東京には何でもある?

金がなくても遊べる街というのはある程度文化の厚みがあり、パッケージプラン以外の遊び方が出来る場所ということで、これはやはり東京に勝る場所はない。

https://togetter.com/li/1455871(借金玉の人生語り(東京Kiss&Explosion)、2020年8月1日アクセス)

 上記は有名なネット論客、借金玉氏の東京評である。この論評もなかなか秀逸なものではある。彼*1のような根無し草からすれば、文化的なものがあって何でもある街である。確かに、東京にはインドカレー屋があり、高級な酒屋さんがあり、新美があり、現美がある。たった1時間の移動だけでありとあらゆる産物を入手することができる。東京の素晴らしさとはそういうインスタントさにあると言っても過言ではない。

偽物だらけの街、東京

行ってやる事と言えば、結局買い物(windiw shopping)

観光スポット行って結局買い物って・・・

なんか面白くないですよね。。

https://www.riche-handmade.com/entry/tokyotumaranai#%EF%BC%91%E5%9B%9E%E8%A1%8C%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%89%E3%82%82%E3%81%86%E9%A3%BD%E3%81%8D%E3%82%8B(【東京はつまらない】実は行く場所がない!オススメスポット行ってもつまらない!、2020年8月1日アクセス)

 しかし、そのような便利さに浴するたびに思ってしまう。こんなものは「本物」なのか。残念ながら、私は消費するだけでは満足できない人間なのである。東京は確かにモノに溢れている、人に溢れている、コトに溢れている。しかし、語弊を恐れずに言うなら、そこに「本物」は一個もないのである。すべてはどこから持ってきた「偽物」なのである*2

 元々、存在していた山を削り、強制的に平地を造り、その上にどこからか持ってきた鉄を使って摩天楼を造る。その営みで出来上がった被造物はまさに人間の営為そのものである。そこに運び込まれたモノも実に人間的な技巧に溢れた素晴らしいものである。それは認める。しかし、そのどれも土地に息づいていないのである。

「本物」を有する地方都市

あと、陽が暮れてからモールの中に出没する流しのバンドマンや、似顔絵やハンドメイドの品物を売っている人や、自転車に外国の自動車のナンバーをつけて疾走している外国人(札幌というか、狸小路周辺にはこういうのが多い)を見かけると、気分が落ち着いてきて『ああ、戻ってきたなあ』と思うことがあります。

https://ydet.hatenablog.com/entry/2014/09/10/175831(心の故郷1:北海道札幌市、2020年8月1日アクセス)

  それにたいして、如何なる事物でもその土地に息づいているのが地方都市である。東京と地方都市、両者は「都市」であるから、本来、二項対立として処理されるのは「地方」である。しかし、この都市以上地方未満の地方都市と東京を比べることにこそ、意味があるのだ。

 例えば、札幌。私の生まれ故郷である。クソ玉からすれば、「何もない街」だったらしい。しかし、私から評すれば何もないがすべてが必要に溢れている都市である。道路の警告灯やどこまでも続く直線の道路、駅前のちょろっとした飲み屋街、そのすべてがその土地に息づていており、人間の必要性から立ち現れている。不要がなく、すべてに役割が振られた美しい街である。

 また、ジンキスカン、讃岐うどん熊本ラーメン、鹽竈ホルモンなどの地の物もこの手の話には欠かせない。上記の名物は私が旅行や地元に帰ったときに食してたものだが、そのすべてがその都市の地理的特性に紐づいて存在している。例えば、讃岐うどんは讃岐三白(米、綿、砂糖)という江戸時代の名産といりこだしという瀬戸内のだし文化が交差することで生まれたものである。あのだしの風味と温暖な気候から採れる野菜の冷めた天ぷら、そしてしこしこの麺。あの一杯にあの地の抱える歴史的文脈があふれている*3。ただ食事をするという行為にさえ、文脈が伴ってくるのが地方都市の生活なのである。

何でもあるが何もない「異邦」、東京

 それにたいして、東京には何でも脈絡なく揃っている。何もかもあるがゆえに何もない。すべての生活が周囲とは無意味であり、たまたま交流が生じるだけである。そこにいることに意味がなく、ただそこにあるだけである。人々はそこに「憧憬」を抱いて集まるが、ごく少数が消費されて、残りはゴミ箱(郊外住宅地)に切り捨てられる。これが私から見える東京である。

 つまらぬ仕事、つまらぬ都市、つまらぬ文化。オリジナルがなく、コピーがただコピー同士でコピーを繰り返すだけ。何者でもないゾンビしか増やさない街、それが私にとっての「異邦」、東京なのだ。

*1:私は彼が彼自身の故地であり、私の故地である「札幌」を馬鹿にしていたから『クソ玉』と呼んでいるのだが

*2:私は自らの出自にたいする歴史的劣位から(家は盛岡藩の中級武士だが、維新のときに家業を捨てて北海道に移住してきた。小学中学はその地域で歴史のある学校ではなく、高校は地方都市あるあるの量産系自称進学校。大学は歴史だけはあるが、学歴にならない。)歴史的なものに非常に惹かれる性格ではある。しかし、やはりその歴史性のなさからむき出しの自然に対抗するために、すべれが必要にあふれているこの街が死ぬほどすきである。

*3:なお、讃岐うどんは元々、丸亀藩の名物である。高松がここ数十年で香川名物として横取りした感があるのが面白い。骨付き鶏も同様である。