日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

『風立ちぬ』と日常

ジブリ映画が好きな私

 私の親はジブリ映画が好きな人で、かくいう私も幼少の頃からジブリ作品を見てきた。小学生までは、『となりの森のトトロ』が好きだったし、中学生になってからは『ハウルの動く城』、『魔女の宅急便』が大好きだった。特に、『ハウルの動く城』は声優自体は好きではないが、ソフィー、ハウルマルクルなど所々欠陥を抱えていた主人公たちが日常のさまざまな問題を乗り越えていく様が生き生きと描かれていて、いい。

 そんな私のジブリ作品不動のNo.1を軽々と超える作品が登場した。『風立ちぬ』である。

芸術至上主義の『風立ちぬ

 『風立ちぬ

 さまざまな方面で議論を呼んだ問題作である。喫煙、戦争などさまざまな問題を抱えている作品ではあるが、この作品の本質は『芸術至上主義』である。この部分については、下記のブログの一文がそれをよく表している。

風立ちぬ』という映画は、さっと表面だけ見ると「不安定な時代を生きた、天才技師である男と病を抱えた女の恋愛物語」ですが、良く見ると「美しさを追い求めることの残酷さ」を描いた映画です。

sombrero-records.note(最終閲覧日:2020年1月31日)〈https://blog.goo.ne.jp/sombrero-records/e/fc082b472586d1994a96b6b975fdcece

 芥川龍之介が『地獄変』で描いた表現者としての本能、その言葉にしてはならないアンポリティカル・コレクトネスな部分を宮崎駿はこの作品で暴露したのである。今日はその暴露の本質について分析していきたいと思う。

美しいものにしか興味がない堀越二郎

 主人公、堀越二郎は薄情な男である。さきほど引用したブログにも傍証が描かれていたが、妹が訪ねてくるのを忘れる、病身の妻を労わることをしない等々、冷静に見ればとてもひどい男である。しかし、彼の本性はもっと別のところに現れている。それは彼のレンズから他者の内面をうかがい知ることができない点だ。

 従来のジブリ作品において、主人公とはレンズであった。それは『風立ちぬ』においても変わらない。私たちは「堀越二郎」というレンズを通して、1920~1940年代という時代を追体験しているのである。

 例えば、『天空の城ラピュタ』においては、パズーとシータという二人のレンズを通して物語は進められていく。映画の最初、パズーから見れば「悪者」であったドーラ一家は悪者として映り、その後、協力者としてより良き「大人」となったドーラ一家は滑稽な息子たちと豪快ながらも女性らしい気づかいを滲ませる母、そして頑固な父という人間味あふれる人々として見えるようになる。シータから見たムスカ大佐も最初は「ただの不気味な紳士」であったが、物語の後半には、もう一度世界の「王」にならんとする「狂人」として描かれるようになる。彼らのまっすぐなその瞳は他者たちの内面の一面をたしかに描き出すことができるのだ。

 一方、二郎である。彼の目に広がる世界は常に「美しさ」に満ちている。幼少期の読書からは「美しい」飛行機を飛ばす夢にトリップし、学生時代に助けた女中の「美しさ」がその眼にフラッシュバックされる。今までのジブリ作品が得意としていた日常描写はその脇に置かれ、同僚たちとの飛行機の「実用美」にたいする熱い議論がクローズアップされる。彼の目に見えるのは、貧しい子どもたちでも病身の妻でも日常に引きずり戻してくれる妹でもない。ただただその時代にある美しいものなのである。

 だからこそ、本来、病身で衰えていく妻の姿は美しいままであり、1940年代の美しくない戦時中の描写は徹底的に捨象される。彼は人間らしい気づかいができないから人でなしなのではない。彼はただ『地獄変』の良秀のごとく、美しいものしか目に映らないからこそ「人でなし」なのである。

宮崎駿の内面表明

才能溢れた人が傍若無人に振る舞い美しさを追求すること。他の人々、特に庶民がその犠牲になること。そういうものが、残酷だけど、でも残酷さ故に余計に美しいのだという悪魔の囁き、宮崎駿の本音を、この映画は大声ではないものの、ついに小さな声で押し出したものだと思いました。

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  ブログの作者は批判的な意味で、宮崎駿の芸術至上主義の発露であると表明する。私もこの作品は宮崎駿氏の内面表明であると思う。

 最初、私は庵野秀明を声優として起用することに強い違和感を覚えていた。「『ハウルの動く城』のキムタクで懲りたんじゃないか」と言いたい気分だった。しかし、「美しさ」しか見れない人を演じるのは本当にそういう人でないとできないのである。庵野秀明は後々、『シン・ゴジラ』において「これが僕の見たい特撮だ!!」と開き直りにも等しい意見表明をするのだが、宮崎駿はその感性を知っていたからこそ彼を抜擢したのであった。まったく素晴らしい根性である。

 宮崎駿イラストレーターの地位向上の労働争議にも関わり、『もののけ姫』では環境問題に積極的に意見表明する。いわば、「闘う」監督であった。同時に、兵器をこよなく愛し、塹壕で繰り広げられる闘争精神に魅了された人物でもあった。しかし、彼の闇の精神は直接的には鈴木敏夫、間接的には左翼の「星」にしたいマスメディア各社のイメージ戦略によって捨象され、エコロジーロハスなアーティストの典型としてもてはやされることになった。

 彼の本音は『風立ちぬ』で始めて明らかにされたのである。宮崎駿とは、ただただ美しいものをその目に見えたごとく、そのまま描写したいという芸術至上主義者だったのである。実はこの意見表明はジブリを追うドキュメンタリーで何度も繰り返されてきたのだが、主にNHKの手によって度々捨て去られてきた。

芸術至上主義者の宿痾

 

dasun-2020.hatenablog.com

  私は宮崎駿氏をISTPではないかと踏んでいる。イラストレートにたいする確固とした理論(Ti)を持ち、それを自らの技量と周囲の助力でもって一つのものにする(Se)。そこに推察から得た人間分析をここでもかと盛り込む(NとFeの合わせ技)。ISTP的巨匠のあり方がここまで如実に現れた人も珍しい。

 上記記事にも書いたが、ISTPは現実志向である。この目に見える現実に美しさ、潔さ、素晴らしさ等々を見抜いて、それを完全に引き出そうとする。そのために一切の妥協は許さない。実はこの点において、宮崎駿堀越二郎は一致している。両者は合わせ鏡のような存在である。そして、それを十全に表現できる人物として、彼は『風の谷のナウシカ』の後継者として指名した庵野秀明にやらせたのである。ここまでISTPがその思想を発揮している映画も珍しい。

 たいていの映画はどうしても万人受けとか、ポリティカル・コレクトネスとか、未来志向といったものを重視して自らの狂信的なまでの現実志向を薄めようとする。実際に、これまでのジブリ作品もパズーやシータなどのFe満点の人物を登場させることで薄めてきた。

 しかし、今回、宮崎駿はどうしても「自分の作りたいものを作るために」それを捨て去ったのである。これはまさしく堀越二郎におけるゼロ戦であり、良秀における地獄変であった。「自らの美しいと思ったものを表現せずにはいられない」、芸術至上主義者の宿痾である。

煉獄に手招きする声

宮さんの考えた『風立ちぬ』の最後って違っていたんですよ。三人とも死んでいるんです。それで最後に『生きて』っていうでしょう。あれ、最初は『来て』だったんです。

『風に吹かれて』,鈴木敏夫中央公論社

  とは言いつつも、そこは大衆作家である宮崎駿。あまりにも救いのない物語を変えた部分もある。例えば、『地獄変』の良秀は最後、娘を見殺しにした罪悪感と自らの芸術至上主義の浅ましさから自害をする道を選ぶ。それは芥川龍之介が選んだ美しも残酷な物語の終わりとして、ありうべき終わり方であった。

 本来、『風立ちぬ』も同様の筋書きであった。どこまでも「美しさ」を求めた者は徐々にその気質ゆえに、「美しさ」の狂気に囚われ、ISTPの唯一の基盤である現実感覚さえ失っていく。その先にあるものは、(宮崎駿としては)煉獄である。「来て」と永遠の処女に誘われた傲慢なる魂は煉獄において燃やし尽くされ、浄化の旅に挑むこととなる。菜穂子というベアトリーチェを引き連れて、さながらダンテとベアトリーチェのように。ここにおいて、ずっと二郎を煉獄に誘っていたカプチーニはファウストにおけるメフィストフェレスか。

 しかし、それだとあまりにもポカン展開だし、余計な火種を起こしかねない。そのため、宮崎はあえて「生きて」と二郎を現実に引き戻す言葉に変えた。だから、カプチーニは残念がったのである。「お前の賞味期限はもう切れたのに、もう鮮やかさを持たない現実に戻るのか」と。しかし、それを知らない二郎は晴れやかに「もう少し生きてみます」と告げる。そのラストはもう巨匠としての賞味期限を過ぎたことを自覚している宮崎駿自身にたいする自嘲でもあろう。

日常は終わらない

 逆に考えてみれば、そんなのは当たり前なのである。北海道の友人が抑うつになって休職しようが、コロナウィルスが突然変異して猛威を振るおうが、東北で大津波が起きようが日常は変らない。私たちが非日常だと思っているものは、日常に見知らぬものが挿入されたに過ぎない。レヴィナスのいうイリヤのように。現実を見れば、家だったものは瓦礫となり、フェリーは病院船となり、擁護職員がただの無職になっただけである。しかし、人間はそこにサリエンシーを感じるのである。そのサリエンシーでさえどんどん薄れて、日常と化していく。

 残念ながら、この目が曇ろうが焼かれようが、日常は淡々と過ぎ去ってゆくのである。すべては日常に帰結する。ある意味、これがISTPにとっては究極の煉獄かもしれない。二度と戻らない美しい娘、美しい妻、そして美しい飛行機、映像作品。それをもう二度と獲得できないことを受け入れながらも、その後悔にうなされる。それがISTPにとっての煉獄なのである。宮崎駿は、万人にこの作品を受け入れてもらえるように、あえて最後だけは汚い現実をそのまま描いたのである。

物語が残酷なのは、主人公が残酷だから

 テクスト論に立つ人間に立てば、こんな文章は駄文だろう。逐語解釈はないし、語にたいする厳密な定義はない。しかし、私は作者論に立ち、歌や映像、飛行機、絵画ではなく、何より思考を記述することに美しさを見出すISTPなのだ。これが私から見た『風立ちぬ』なのである。物語が残酷なのではない。作者の偶像たる主人公が残酷なのだ。ピラミッドや意見表明が残酷なのではない。その意志そのものが残酷なのだ。美しいものを追わずにいられないからこそ、分かるのである。

 もっとも残酷なのはISTP自身である。