日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

神を恐れない日本人

郷土史」に興味がない日本人

郷土史、日本においてあまり日の目を見ない学問である。歴史といえば、教科書的に編集された「正史」のみが教えられ、郷土に息づいてきた神話や古文署の解読を通して確認された史実は徹底して軽視される。

この現状は明治政府による意図的な創作の帰結である。明治政府は天皇に従う神のみを正当なものとし、天皇に逆らった人々を大罪人として描いた。その後のGHQの教育改革によって、天皇はそのまま「科学的に分析できる事実」のみにすげ替えられ、郷土に眠る歴史を顧みるものはごく少数である。

科学的な事実=権力にとらわれた事実

フーコー氏の分析するように、学問によって権威づけられた事実というのは、一つの権力によって「正しさ」を与えられないに過ぎない。歴史学者は慎み深いために、その実態にたいして非常に謙虚であり、公理系としてしか歴史を捉えていない。

しかし、世の大衆はそうではない。そのような実態を指摘すれば、「勝者が歴史を創る」などと嘯いて、自分たちのほうが優れているなどとぬかしだす。また、公理系としての歴史にたいして、自分の私見ばかりを綴った物語を「これが正しい歴史です」などと騙って売り出す小説家もいる始末である。

郷土史は神を畏れてきた歴史

そのような胡乱な喧伝にたいして、対抗してきた人々がいた。意外にも、社会科の教員である。どっかの頭の腐れた自称保守派たちは、郷土史の発掘してきた歴史にたいして「左派」的だの、「そんなことは歴史書に載ってない」だの騒ぎはじめる。しかし、文書として、民話として、信仰として遺ってきたものは紛れもない一つの史実なのである。所謂、土着的ともいえるリベラル意識をもつ彼らのほうが遥かに正しく神を畏れ、自称保守派は近場の神社などにはいかず、パワースポットだの護国神社などに行きたがる。

天罰は必ず下る

そのようなことをしている連中は無自覚かもしれないが、必ず天罰は下る。別に私は神など信じていないし、天罰なども信じていない。しかし、台風や地震津波、風土病、流行病は周期性を有するものであり、その解決策や対応策は必ず郷土史に眠っている。自分の足元を知る者は必ず救われるのである。

神を畏れるとは自らを知ること

つまり、私がいう「神を畏れる」とは、自らの足元をよくよく理解しておくことなのである。そのために、一つの公理系としての科学があり、実態があるからこそ科学は意味を為すのである。科学は信仰するものではなく、自分の生活のために利用し尽くすものである。

 

――神を畏れよ、そして日々の豊かさに感謝し、来るべき災厄に備えよ。