日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

新型コロナは現代の元寇かもしれない

日本政府に感じる無能感

 現在、日本政府はそこそこの努力はしている。厚生労働省では、毎日しっかりとした新型コロナにたいする報告を上げている*1し、中小企業庁は真っ先に資金繰りが苦しくなる中小企業向けの助成金*2を発表している。首相が言い間違えたが、この国にしては珍しく5月8日から10万円の給付金が支給される予定である。

 しかし、どうも政府がすべてに後手に出ている感がいなめない。私としては2~3月までの対応は20点だが、ここ1ヶ月の対応には40点を与えてもいいと思っている。どうやら国民の最大公約数的な意見はそうではないようだ。

休業要請の拡大や補償などを行い、具体的に人の流れを止めるのは、政府が迅速に対応すべき問題です。しかし日本政府は、これまでそれを十分にやってきたとはいいがたい状況です。こうしたことを受けて、日本の政府対応の評価は、依然としてフランス・スペインの2国とともに最低水準となっています。

https://note.com/miraisyakai/n/n711262c4d678

 上記のサイトはいくつかの世論調査を多重的に分析しており、その調査手法からイデオロギー色の出やすい世論調査統計学的に中立な観点から分析しなおしてくれるものである。そこでも、しっかりと日本政府は無能であるとの評価が下されている。

 実態的な政策とそれにたいする評価の低さ、これをどのように解釈するか。「マスメディアが報道しないのが悪いんだ!!」とマスメディア悪玉論を出す人もいるだろうが、それでは実態を説明しているだけである。一部であっても国民の素直な欲望を映すマスメディアやインターネットがなぜ報じないのか。その要因を今回、私は「御恩と奉公」というワードを使って論じたいと思っている。

同じことをしてもうまくいかないロシア

【5月4日 AFP】ロシア政府は3日、同国で過去24時間に確認された新型コロナウイルス感染者はこれまでで最多の1万633人で、累計で13万4687人になったと発表した。ロシアで感染が確認された人は日ごとに数千人の規模で増えており、今や1日当たりの新規感染者数が欧州で最も多い国となっている。

https://www.afpbb.com/articles/-/3281555

 実は日本とまったく同じ自粛で新型コロナを封じ込めようとした国がある。ロシアである。ロシアは日本と同じく休業補償などの具体的政策を行うことなく、強権的な「呼びかけ」をもって国民全体の外出を抑制しようとしていた。その結果が下記のような状況である。

もうモスクワもモスクワ州もコロナ感染に関しては大丈夫ではないです。みんな自由人すぎて外出制限は完全に失敗してます。ロシアは別の道を模索する段階に来てると思います。

https://twitter.com/Moscow_now/status/1256973720624795659

 日本では成功していた外出自粛の「要請」が失敗している。Twitterで見た面白い動画では、「家に戻れ」と呼びかける警官にたいして、団地住民全員でシュピレピコールを浴びせたり、立ち入り禁止のテープの貼られた遊具で遊んでいたりしている。その状況は無政府状態そのものである。

忠誠/契約の文化

 この背景には、契約の文化がある。ロシア人はツァーリズムという中国の皇帝独裁にも似た体制を有しているが、ヨーロッパ(キリスト教文化圏)人である。キリスト教文化の中心は契約、自分の有する価値をもとに役務を行い、その結果如何で相応の対価を取得するというものである。 文化人類学における「交換」の概念ともいえる。

 ここで重要なのは、自分の有する価値を賭けた瞬間に、相手は対価を与える権利が発生する点である。だからこそ、民法上の契約では、その役務を執行するのに必要な額を前金として授受できる条項がある。

 契約においては必ず対価を求められる。それは主なる神においても例外ではない。主なる神は神の独り子を十字架に掛ける役務をもって、人々に救済という対価を与える契約を行った(新約聖書)。その見返りとして、人々は神の愛に生きることを求められるが、同時に神は神の愛に生きる人々を絶対に見捨ててはならない。必ず永遠の命を与えなければならないのである。ここまで言えば分かると思うが、ロシア政府の「自粛要請」は謂わば対価のない契約であり、そんなものをロシア人が受け入れるはずがないのである。

 契約と似た概念に「忠誠」がある。こちらは相手から一方的に与えられる/与える概念であり、文化人類学における「贈与」、レヴィナスにおける「歓待」といえる。この概念をうまく対策に活用すると、独仏伊が行っているような「対コロナ大戦」となる。外出禁止とは、新型コロナという見えない敵にたいする国家の忠誠を確認する場であり、休業補償金とは戦場における糧食にも等しいものである。この対策の問題点は人々が疲れやすく、また公衆衛生という勝利を上げにくい戦いのため、離反を招きやすいという点だろうか。

尊崇/御恩と奉公の文化

 では、日本ではどうして世界的に異例な自粛が成功しているのか。それは日本における「交換」とは、「御恩と奉公」だからである。御恩と奉公とは、その順番は問わず、上位者から下位者に与える利益のことを御恩と呼び、下位者から上位者に与える利益のことを奉公と呼ぶ。ここにおいて重要なのは順番である。

 契約では、その契約を結んだ時点で受益者が役務者にたいして必ず報酬を与える必要があった。御恩と奉公に関してはそれが不要なのである。上位者は本領安堵という形で下位者の元から有する利益を強化すればよういし、または新恩給与という形で代償を与えればよい。それを与えるのは事案の前でも後でもいい。

 日本の自粛が成功裡に進んでいるのはここである。新型コロナによる自粛という兵糧攻めはまさに安倍将軍を棟梁とする日本国武士団の正念場であり、それを成功させれば必ず安倍将軍から御恩が与えられると少なくとも日本社会の指導層は信じている。だから、10万円という報奨をポーズとして断ったりしている。その裏にあるのは「それよりもっと大きいリターン(新恩給与)をくれますよね?」という期待感である。

元寇との類似

 なんかこの状況、すさまじく元寇と似ている。元寇の第2波において、鎌倉武士団は意気揚々と博多の沿岸に集まり、土塁というほとんど無意味な莫大な土木工事まで無償で行った。それは外敵という分かりやすい敵を倒すことで自分の武功を立てられるという打算による行為である。この当時、御家人たちは分割相続による長期的な資産減少に苦しんでおり、武士団の運営建て直しという喫緊の課題を解決するための行為でもあった。

 まあ、その結果は日本史を学んだ方ならご存じかと思うが、北条得宗家の実権のみが強化され、血を流した現場がたいして得もしないという状態である。ここにおける御恩を頂けなかったという何とも的外れの恨みが鎌倉幕府の打倒につながることになる。

大丈夫か?安倍ちゃん!?

 個人的には、新型コロナ不況が戦後70年も継続しえた自民党幕府の終焉になりかねないと思っている。革新陣営は1993年の細川・羽田政権、2009~12年の民主党政権を「政権交代」と誇っているようだが、あれはあくまで自民党内部における派閥同士の闘争の隙にできた幻影のようなものであり、実権はなかった。この国は1940年代の議会政治の混乱の結果、成立した保守包括政党たる自由民主党の幕府的な政権運営がずっと続いている。

 その質は初期の有力者による合議制から、派閥の首領による「執権政治」、小泉政権からの総裁専制と質を変えてきた。現在はまさに総裁専制・官邸政治の時代であり、鎌倉・室町・江戸末期と同じく、天皇陛下が傀儡(国会)の傀儡(自民党)の傀儡(派閥)の傀儡(総裁)によって動かされている状態にある。この体制はとても不安定なのである。安倍政権は今も積み続けている国民総動員の「御奉公」に応えることはできるのだろうか。

東洋文明における贈与、歓待である『尊崇』

 尊崇/御恩と奉公の文化では、章のないようを御恩と奉公に使い果たしてしまい、尊崇に言及することを忘れてしまっていた。最後に補説として尊崇について説明する。

 尊崇とは、西欧における忠誠である。忠誠とは、受益者にたいして役務者が忠誠を誓うことではじめて成立するものであり、それ以前において一方的な役務の行使が発生することはない。例えば、イエス・キリストが伝道の旅において人々に与えた奇跡とは、まさしく人々にたいする忠誠の成果であり、その窮極の現れが十字架における贖罪であった。奉仕ともいえるこの概念は主にカトリック東方正教会において明確であり、マザー・テレサは何も実効的な貧困対策を行うことはなかったが、最後まで貧困層に寄り添い、奉仕しつづけてきたといえる。

 尊崇では、ここから時間的概念が消失する。尊崇とは、下位者が上位者にたいして抱く無条件の畏れと崇拝である。そこには、目覚めも回心もない。生まれながらにして尊崇を受ける者は絶対的な上位者であり、尊崇する者は圧倒的な下位者である。本朝においては、天皇陛下のみが唯一人にして尊崇を受ける者になっていた(だいたいの尊崇は仏などの形而上的存在や自然現象、怨霊などのこちらが自由にできるものにしか与えられなかった)。

 しかし、同時に尊崇される上位者は無能力者である必要がある。彼の言動はすべて真であり、偽であることは許されない。自然現象のごとく必然のものでなければならない。これを意思を有する人として行う場合、唯一の正解は何も発言しないことに尽きる。「尊崇される上位者の言動はすべて是である」という真理を実行できなった者は、時間的経過のない御恩と奉公という貸借の迷宮へと零落する。

 この尊崇という危険極まりない装置を悪用したのが明治国家であった。だからこそ、彼らは徐々に無能力へと落とされていき、必敗の戦争でも必勝と主張しつづける羽目になった。今回の騒動で安倍将軍が玉音を持ち出さないのは圧倒的に正しいのである(逆に東日本大震災などの発生時にはすべてが終わっている災害や譲位などの私的イベントは玉音を行使することは有効である)。