日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

現代の創作物は造物主を喰らう

とある楽曲

 歴史的にも長い梅雨と100時間程度の超過勤務に死にかけていた私に久々の筆を執らせたのはこの動画だった。


トップハムハット狂 (TOPHAMHAT-KYO) "Mister Jewel Box"【MV】# FAKE TYPE.

 この曲を聞いたときに思い出したのは、昨年、若くして逝去したwowaka氏が初音ミクと決別するために書いたこの曲だった。


ヒトリエ 『アンハッピーリフレイン from LIVE DVD&Blu-ray 「HITORIE LIVE TOUR UNKNOWN 2018 "Loveless"- 2017 "IKI"」』

 この2つの曲には、現代社会を代表するような一つの事象を端的が現れている。それは二次創作の問題にもつながる非常に深い根のある問題である。それを一言で語るならば、下記のようなものになろうか。

現代の創作物は造物主を喰らう

 著者論の時代

 人間は古代から数多くの創作物を創造してきた。聖書にも書かれているとおり、被造物たちは絶対的に造物主に逆らうことはできなかった。最古の例を見れば、バベルの塔しかり、最新の例を見れば、電子計算機に至るまで、彼らは我々創造主が定めたとおりに動くことしか許されないものだった。

 このような有史以来の状況は、文学研究における『著者論』に比定することができるだろう。この世のすべての存在者は創造主から何等かの役目を与えられており、その役目を演じることだけしかできない。むしろそこから逸脱する行動は神とその似姿である人間にしか許されない特権であった。

 事物に示された創造主の『しるし(サイン)』にこそ意味があるのであり、被造物そのものには物を生み出す価値はないのである。これは古代に多く書かれた偽典が多くの有名な著者の名を騙っていたことや近代における著作権の概念からも分かるであろう。

コペルニクス的転回―テクスト論―

 1970年代以降、そのような著者優位の状況がどんどん突き崩されていく。まず、それはアカデミックな世界で発生した。ルイ・アルセチュールによる『資本論を読む』である。彼はマルクスイデオロギーによってガチガチに支配されていた『資本論』を読者に展開したのである。この衝撃は相当に大きなものであり、当時のフランス論壇に大きな論争を巻き起こした。その神学論争はのちにデリタの『脱構築』を産み、文脈そのものを無効化する学派を形成していくことになる。

 大事なのはそこではない。重要なのはこの流れがインターネットの拡がりによって世界中に広まったことである。日本において、それは地下出版によって地道に支えられていた『二次創作』という世界とつながり、世界有数の爆発を見せた。

 『二次創作』とは、読者自身が感じた登場人物を作品の文脈から切り離し、自由に遊泳させる行為である。まさに、これは『脱構築』そのものであり、文脈の読み替えそのものである。日本の知識人層が悪用し、著作権の問題から軽視されながちな『二次創作』ではあるが、デリタの想定していたような行為を一趣味人が好き勝手に行っていたのである。

テクスト論における著者とは一解釈者にすぎない

 肝要なのはそこにおける著者(創造主)の立ち位置である。元々、登場人物とは著者が何かを表現したいために、作品のなかに立ち現わせた著者の一部である。登場人物の知性は絶対に著者を超えることはなく、それが故に創作物において著者は神のごとく振舞うことができる。

 しかし、テクスト論において、著者とはテクストへの一解釈者に過ぎないのである。多くの読者たちが作り上げた言表の最初を記述したフロントランナーに過ぎない。彼はそのフロントランナーとしての先行者利益を享受することはできるが、彼に絶対的な地位を享受することはできないのである。彼にできるのは自分が作りあげた『創造物の王国』において、ニコニコと手を振り、時には調停し、自らのコンテンツの利益を最大化するように企図するだけである。

 まさに創作の民主化が今のインターネットでは発生している。

テクストの奴隷としての著者

 象徴君主制における君主のような「奉仕者のなかの奉仕者」としての地位を強要される著書ではあるが、彼はより酷な地位に落とされることがある。それは読者が続編を望んだ場合だ。

 テクスト論の時代において、人々の願望と解釈によって構成された言表こそが「テクスト」であり、神である。著者に求められるのは、そのような読者の期待を裏切らない続編を作成し、「テクスト」の新天地を築きあげることである。自らが自らの手で被造物を造り上げた瞬間に、被造物は造物主の手を離れ、自らを苦しめ、増殖を強制する「異形の神」として還ってくる。上述の二曲はその状況を非常によく表わしている。

〈カテドラル〉としてのテクスト論

 このような状況は民主的な運営を何よりも望む「リベラリスト」にとっては何よりも歓迎すべきものである。万人に創作の機会が開かれ、多くに利益を享受できるチャンスが巡ってくる。そして、著者は特権的な地位を降り、慎ましやかな支援者の地位に満足する。

 このような時代こそ造物主にたいする敬意がない不敬な時代だと思うのは私だけだろうか。