日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

自己啓発本を読んでも意味がない理由

立ち読みをしてみると

私はよほど一目惚れした本以外は基本、立ち読みを数ページしてから買う。いや、だいたい買ってる本は一目惚れして買ってるので、立ち読みをするような本は買う価値はないということになる。

雑誌、小説、新書……等々を立ち読みしてきたが、その中でも群を脱いで買う価値がないと思ったのは「自己啓発本」である。

自己啓発本はポエムである

よく哲学書自己啓発本の類いだと思い込んでいる人がいる。そういう人に声を大にして言いたいのは、自己啓発本哲学書では、その成立背景の深さが異なることだ。

自己啓発本、ここでは具体名を挙げることを避けるが、とある哲学者の著作の要約集などは基本、その哲学者しか登場しない。もっと言ってしまえば、その哲学者を通じて自分の思想を語らせているに過ぎない。

例えば、「アドラーはトラウマはないと言った」とその著者が紹介したとき、そのトラウマの定義とはなにかという話になる。PTSDなのか、それとも過去のとらわれなのか、それともまた別のなにかなのか?基本、自己啓発本はそのような明確な定義なしに進むことになる。そのため、その語のほとんどは無意味なフレーズの連呼に終わり、そこに学びは一個もない。

一方、哲学書。例えば、『ツァラトゥストラはかく語りき』などの自己啓発本扱いされるものがある。しかし、『ツァラトゥストラはかく語りき』はニーチェの研究してきた古典文献学の学識が多分に含まれており、プラトンキリスト教、仏教などのさまざまな思想にたいして方向性が開かれている。

また、批判書、批判論文が多数、発表されているのも大きい。ある哲学者の意見について疑問に思ったとしても、CiNiiを活用したり、書店をもう一度訪れることで、新しい知見を得ることが可能になる。

自己啓発本は「閉じられ」、哲学書は「開かれている」

謂わば、自己啓発本は自らの世界のなかに安住している。よく自己啓発本の販売手法のことを「バイブル商法」などと言われることもある。これは言い得て妙である。そこで批判の矢面に立たされる聖書でさえ、キリスト教諸派の進学論争に立たされ、常に定義が変わっているのだから余計に始末に負えないが……。

自己啓発本の目的はあなたを信者をすることにある。信者に追い落とすことによって、自分の著作をまた買わせる、または自分の商品を買わせることが連中の狙いである。

一方、哲学書は単なる物好きが書いたものである。意見を闘わせ、議論し、その結果、沈思黙考したものを「紙の上に錬成せざるを得ない」連中が書いたものである。だからこそ、自己啓発本を手に取るよりかは哲学書を手にとってほしい。その上で、作者と議論を重ねることで更なる学びを得ることができるだろう。