日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

肉感的な神と観念的な神

『まつろわぬ神々が近代なってから本格的に零落した』と今まで二つの記事で取り上げてきたが、その意味について詳しく語ることを避けてきた。この感覚はあくまで私がさまざまな寺社仏閣、教会等々を巡るなかで得た肉感的(アクチュアル)な現実であり、言語化することは非常に難しいのである。

零落するとは

神が零落するとは、肉感が失われ、単なる観念的な存在になることである。そもそも、零落は日本民俗学の権威、柳田国男氏の『妖怪談義』に出てきたワードで、柳田氏は「神々が零落した状態を妖怪」と考えていた。

まあ、後世の学者に批判されるように、この学説は妖怪の範囲を著しく狭めるものであるし、神々の有り様を単一的に捉えるものである。私もこの考えに立つものだが、妖怪学の視点から「零落」が語られることが多く、神々の視点からは語られることが少ない。

そのため、私はむしろ神々の視点から零落を語ってみようと思う。神々とは、信仰によって万人から認識される純粋な観念的な存在である。認識とは、私たちの感覚器官が受容する刺激によって構成され、その認識がさらに感覚に合わせた形に最適化するという正のフィードバックが起こりつづけるものである。

この認識のフィードバックによって処理しえない現象に邂逅したとき、人はそこに神を見いだす。人が自らの認識の外から訪れたものに自ずと恐怖心を抱き、自ら頭を垂れるものなのだ。

これこそが肉感的な信仰であり、これによって崇拝される存在を「肉感的な神」と呼ぼう。山中異界、補陀落渡海、宇宙的恐怖など、人々は自然のなかに我々の認識の外の存在を確知するからこそ、人は万物を畏れ、崇めるのである。

零落とは、人間の認識の過程を知ることによって、神々がなにものでもない事象に分解されることである。

遥か昔、サッポロッペのアイヌはインカルシペに浮かぶ神々の火を畏れたが、現代人はそれが単なるプラズマの発火現象や月の光の反射だと知っている。モレヤの人々はモレヤ山の木々や自然にモレヤの神が宿り、活動していると考えていたが、それは単なる細胞の構成体であり、単なる生命活動であることを知っている。

このように、太古の人々が超認識的事象と見なし、畏れを抱いていたものを単なる物理活動と割りきってしまうと神々の居場所がなくなる。そうなると、神々は観念的な場所、すなわち脳内に逃げざるをえない。この脳内への逃避こそが「零落」である。

観念的な神

このような観念のみ神(観念的な神)とは、すなわちコンテンツである。戯画に出てくるキャラクターと同一の存在であり、私たちの肉体(以下、脳、感覚器を含めた総称として「肉」と呼称する)の外側に実在することはできない。

神々は観念的であるからこそ、私たちはそれをおもちゃにすることができる。日本において、古くは尊皇攘夷派の現人神「天皇」、近しい事例では『東方project』や『Fateシリーズ』に出てくる神格が例としてあげられる。彼らは肉のなかの存在であるからこそ、万人に解釈が開かれてるのであり、どのような言葉を喋らせようと行いをさせようと許されるのである(もっといえば、靖国神社の英霊は、生きてるときに本心から「死んで靖国で会おう」や「死して護国の防人になる」などと思っていただろうか)。

※戦前の例をあげれば、昭和天皇の意向などを無視して「天皇親政」を目刺した皇道派、最近では『東方project』や『Fateシリーズ』における「二次創作」などが分かりやすいであろう。

失われる口伝

この零落を早めるのが「口伝の消失」である。肉感的な神への信仰において、秘儀は重要な要素である。

キリスト教で未だに肉感的な信仰を実施されるカトリック東方正教会においては、聖体変化は未だに神父(司祭)のみに赦された秘跡であり、人々の信仰はそこに集中し、その信仰の現れとして聖体拝領が行われる。

一方、パンとぶどう酒を単なる聖体の象徴として認めてしまったプロテスタントにおいては、肉感的な信仰は散逸する。聖書や信仰などの肉のなかの要素のみが是とされ、肉感的な信仰は各人の自由とされてしまった。その結果、肉感的な信仰は暴走し、聖書逐語説や異言など観念的な神を好き勝手に操るような形態に零落する。

キリスト教において、神とはそもそも観念的な存在であるがゆえに、零落するのは「信仰」のみである点が興味深い。

このように「口伝による秘儀の継承」とは、肉感的な信仰を統一的にするのに重要である。例えば、明治以降に「まつろわぬ神々」の信仰は散逸したのに対し、天皇及び皇祖神にたいする信仰は単一的に保たれてきた背景にはこれがある。具体例があげるならば、三種の神器の継承、大嘗祭による即位の公認等々の皇室行事が連綿と続けられてきたことにある。

※皇室行事の正統性についても怪しい点があることは承知している。もし、光格天皇が創作したものであっても、行事にある一定の肉感的な妥当性があり、日本人を魅了してきた点を忘れてはならないだろう。

神を畏れなくなった日本人

古典において、日本人は神を畏れた。一言主が来た際に、天皇は畏れひれ伏し、自らの着物を捧げた。民衆は神馬や白蛇などの神々の証にたいしては近づくことも見ることもしなかった。

しかし、現代の日本人は神を畏れない。諏訪大社御柱には、平気でペタペタ触るし、スピリチュアルパワーを受けとるとか言って神木にハグするような者さえいる始末である。まさしく肉感的な神が観念的な神に零落させられ、コンテンツと化しているのである。

天皇も例外ではない。天皇即位の一連の行事はコンテンツとして嬉々とした目で眺められ、祝賀御列の儀は一種の見世物行列と化している。皇室の方々が「賢い」のは、それすらも自らの存続のために有効活用してる点である。

神は死んだ

ニーチェのこの言葉が現状に相応しい。現代において、(肉感的な)神は死んだのである。残ったのは「肉感的な神の残滓=観念的な神」としてのコンテンツのみである。

むしろ恐ろしいのは、その神に成り代わらんとする不埒な連中がいることである。関暁夫などを例として上げるのは彼らには失礼だが、彼が誇張して紹介しているトランス・ヒューマニズム新反動主義(こんなものは反動ではなく、加速主義と称したほうがよい)などの支持者たちは、自らが既知の次元を飛び越えて、支持者たちを改造し、自らの含めた支持者を肉の鎖から解き放し、人々を未知の次元に誘おうとしている。

私はどうも彼らにはいつか手痛いしっぺ返しが来るのではないかと思っている。神は元々、彼らの信仰するプロテスタントが信じているような観念的な存在ではなく、肉感的な超認識的存在である。彼らが見落としている点によってこそ、彼らは自滅の道を辿るのではなかろうか。