日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

道外と本土

最後の植民地

日本に残された最後の植民地、それは北海道と沖縄である。そんなことをいえば、自称愛国者さまが猛り狂いそうだが、近代史を見れば歴然とした事実である。

北海道、沖縄は近代以後、日本人が

先住民族を同化させたり

・混血によってアイディンティティを潰したり

・日本人を植民させたりすることで、

経済圏に組み込むことに成功した地域であり、普通そのような地域を植民地と呼称する。また、その頃に造られた構造的な差別が今でもイキイキと社会、文化や行政に息づいている。

中央依存という病巣

というよりも、むしろ明治政府によって日本列島全体が植民地化されたといえる。その具体例は以前、取り上げた諏訪における信仰の剥奪など枚挙にいとまがない。しかし、これはむしろフランス絶対王政による中央集権化などと同じ構図である。

ともかく日本全体には、徹底した中央依存という形でその病巣が生き残っている。中央の高級官僚がすべての采配権を握り、地方にできるのはその富の効率的な簒奪だけである。北海道と沖縄はその構図がより色濃く出ているのだ。北海道開発局沖縄総合事務局、沖縄防衛局などはまさに現代に生き残った植民地官庁そのものである。

しかし、メンタリティはことなる

しかし、メンタリティは異なる。両者はともに被害者意識を共有しているが、その表し方が異なるのである。言うなれば、北海道は自民族中心主義的、沖縄は同化主義的な発露をしている。それを表す典型的な言葉が「道外」と「本土」だ。

「道外」意識に垣間見える自民族中心主義

道民は本州などの地域を「道外」と呼称する。昔は樺太、台湾や沖縄と同じく「内地」という言葉を使っていたが、今は「道外」のほうが支配的である。

この「道外」という言葉、明らかに北海道が中心である。北海道(道内)こそが我々の生まれいづる郷土であり、こちらこそが謂わば「中華」という意識である。だから、予算が足りなければ、本省から奪い取ってくればいいし、道内で事足りるなら不必要な経済進出はしなくていい。

道民は無意識ではあるが、道外、特に関東圏の人間を見下している。あんなクソ寒い冬を経験したこともない軟弱者には「北海道のやり方」など分からないと、道外からの転勤者や移住者に優しく接しながらも「教えてやらねば……」と思っている。

この意識の噴出が東京の大雪における道民の姿勢である。「たかが10cmで……」、「冬タイヤや冬靴をはかないからだ」などなど日常会話においてもナチュラルに見下してる。

つまり、北海道民は余所者に優しいのではない。余所者なんて大したことがないから、(内心、見下しながら)優しく接してるだけなのである。

「本土」意識から滲ませる被差別意識

たいして、沖縄である。沖縄では、日本列島のことを「本土」と呼ぶらしい。昔は「内地」と呼んでいたそうだが、「本土」が主流になったとのこと。それにたいして、沖縄は「ウチナー」もしくは「沖縄」である。

「本土」と「沖縄」、本質的に沖縄人は自らを別民族であったと認識している。北海道はアイヌ民族を放逐したあとに、日本人が入り込んで居住した文字どおりの「植民地」である。それにたいして、「沖縄」は「琉球民族」を日本人へと同化させることで日本化された地域である。その歪んだメンタリティはまだ言葉に残っている。

また、米軍基地問題もこの意識が尾を引いている。沖縄人からすれば、基地は日米の勝手な都合で押し付けられたものであり、その補償はあってしかるべきなのである。日本人は被害者意識を重要視する傾向にあるが、私は被害者意識ほど最悪な意識はないと思う。被害者意識があるがゆえに、やってもらって当たり前というお客様状態に移行するからである。

この被害者意識ともいえる態度が逆転すると、「同化主義」に陥る。自分たちは日本国の「二等市民」ではなく「一等市民」だと思い込むことで周囲を見下して、自らを聖域化する。そうすることで、自らの惨めな境遇と周囲を否定し、自らの幼稚な楽園に安住できる(道民は真逆である。自らが「一等市民」であり、「二等市民」である道外勢を歓待する義務がある)。

このように、沖縄人の心の奥に潜むものは被差別意識であり、その裏返しの同化主義も立ち現れるのである。

明治政府の遺した課題

このような歪んだメンタリティを少しずつ解消するのが今後の日本政府の課題である。しかし、大多数の旧帝国主義国においては、この問題を解決できず、国家の存亡の危機をもたらす事態となっている。

それをどうすれば解決できるのか、それは失敗した琉球政府、沖縄防衛局、沖縄総合事務局と成功した北海道庁北海道開発局を見れば自ずと答えは出てくると思う。