日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

信仰、教学、規範

宗教と一言にいうけれども

宗教、この言葉はとても多様な意味合いをもつ言葉である。仏教、神道などの一般的な宗教もあるが、他にも、何かを信じることやあるものに熱中することにも使われる。

私はこういう曖昧な使われ方をされる言葉が好きではなく、よく自分なりの定義を見いだして分類を行っている。今回は私の宗教観にも繋がる宗教の分類について紹介しようと思う。

「信仰」としての宗教

まずは、世間一般の人がイメージする「信仰」としての宗教である。「神や超常的な存在を信じる」ということにも言い換えられようか。

例えば、カルト宗教などと言われる新興宗教の一群なんてのは、まさにこれの適例だろう。○○神を信じる、そして信じるがゆえに畏れ、平伏する。このような人間の行動を超規範的に縛り上げる何かの信念のことである。

別に、これはモノやアイドルなどでも、私は「信仰」としての宗教になるわけで、例えばフィギュアスケーターの羽生くんを熱愛するあまりに数百万注ぎ込んだり、羽生くんにハマったおかげで育児ノイローゼから解放された人たちなんかも「羽生信仰」の信者と言えるだろう。

「教学」としての宗教

日本人は無意識ながらも大多数が属している宗教である。謂わば、宗教儀式を通して、信仰の再確認を行うことである。そして、その儀式には必ず「教学」としての解説やら論理が付きまとってくる。そういう一定の行動を縛り付ける規範の体系のことを指す。

日本人の多くは無宗教と謳っているが、実態は神仏習合の教学に従って生きている。例えば、冠婚葬祭なんてものがいい例だろう。毎年、初詣に行き、結婚は和式で行う人がおり、葬式は自分たちの宗派で行う。そういう一連の人生に関わってくる儀式そのものである。

本来、教学には信仰がセットで付いてくるものだが、国家神道の暴力的な信仰剥奪政策のせいで、素朴な土着信仰と高度化された神仏習合の教学との間を結んでいた「肉感的としての神を仏教によって理論化するという試みそのもの」が剥奪されてしまった。

「規範」としての宗教

逆に、日本人の意識にないものである。これが強いのは中国人、韓国人(儒学)とユダヤ人(ユダヤ教)だろうか。教学の規範性が一般生活にまで及び、一種の生活習慣と化したものである。

例えば、ユダヤ教においては、安息日に労働をしてはいけない。これは単なるお休みというレベルではなく、いかなる活動もしないという意味である。そのため、前日には食事の支度を済ませておき、安息日には家族とともに神と語らうのである。

儒学もこの類いの宗教である。子は親を、年少者は年長者を敬わなければならない。そのために、必ず年長者には敬語を使い、酒を呑みすぎてもいけない。

日本が儒学的などと腑抜けたことをいう連中がいるが、年長者に時折、敬語を使わなくても親しみの証とされ、年長者の前でぐでんぐでんになるまで酔っぱらっても無礼講と許されるこの国のどこに儒学があるのか。まあ、韓国の場合は信仰という要素がないので、途端に厳密化して滅茶苦茶な理屈になることが多々にして多いが。

生活の次元にまで薄く広く伸びた教学というのは、儀式のみを縛り上げ、その神秘主義的な性格を保ちつづける教学とは異なる。謂わば、よりライトであり、一般的ではあるが、束縛性が強いのが「規範」としての宗教なのである。

日本人の宗教

私自身も怪しいが、私は一応、カトリックなので信仰―教学―規範の三連星はカトリックである。しかし、このような首尾一貫とした地域は珍しく、キリスト教イスラム教などの一神教ヒンドゥー教ユダヤ教などの民族宗教が信仰されている以外の地域では、いくつかの宗教がリミックスされていることが多い。

例えば、お隣の中国。中国においては中心的な信仰は「天」信仰である。天という絶対的な存在が君臨し、すべての命(さだめ)を決めるという一種の無常観が身体に染み付いている。教学としては道教と仏教の混合であり、規範としては何よりも儒学、そして法家だろう。このようなごちゃ混ぜ形態だからこそ、冷徹なまでの論理性と神秘主義の両立が可能なのである。

では、日本はどうか。日本における信仰はまさしく「自然」そのものだろう。自然というよりも、風土、いやありとあらゆる事象そのものか。すべての事象には魂が宿り、それは死しても一部は残りつづけるという先進国にあるまじき土着的なアミニズムである。

教学としては、明治政府の努力も嘆かわしいが、神仏習合が残りつづけている。事象のなかでも強力な連中が「神」になるのだから、それをありがたく拝んで、隙あらばそのお恵みも頂こうというものである。それの理論化のお手伝いをしてくれるのが仏教というわけである。

規範は一応、儒学であるがそんなものはない。強いていえば、世間をあげられるが、そんな周囲を考えて暮らすなど世界中のどの民族もやってることだし、トーラー、シャーリア、カーストキリスト教神学や儒学などと同列に語ること自体が烏滸がましい。

なんというか、このポワポワした在り方こそが日本人の宗教そのものなのである。私はこんな教えに「日本教」などという大層な名前を付けることのは嫌だ。高度な論理性と神秘主義を兼ね備えるカトリックなどの世界宗教に失礼だと思う。