日々凶日

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藻岩山と円山―まつろわぬ神々の行く末―

北海道神宮と円山

札幌神社(現北海道神宮)は、箱館八幡宮宮司島義勇らの構想はあったものの、その大元は現在の北5条東1丁目にあった出雲神の小祠(普通は道祖神が多い)といえる。この祠を作ったのが後の円山移転に関わる早山清太郎である。

早山清太郎は、その後島義勇のもとで地理係として札幌神社の移転地策定を担い、三方を山に囲まれ一方が開ける丘となる円山を蝦夷一宮に相応しい地として推薦し、実際に移転が成功している。しかし、その山は本来、モイワと呼ばれる山であった。

インカルシペに蝦夷総鎮守を

それから遡ること数年前、かの北海道の名付け親松浦武四郎が後の札幌となる地を訪れている(後方羊蹄日記)。

その地において、後に藻岩山と呼ばれる山は「インカルシペ(見張りをするところ)」と呼ばれており、神々がおわします霊山として崇拝を受けていた。その様を見た松浦武四郎は「インカルシペにこそ蝦夷総鎮守の宮を作るように」と書き付けている。

インカルシペとモイワ

その後、インカルシペはその意を意訳された「眺臨山」や音訳である「笑柯山(えんがるやま)」と称されることになった。片や円山と呼ばれることになる小山は「モイワ」という名前があったが、京風に「円山」と命名された。藻岩(モイワ)そのものはその名は地域一体を指し示す地名になった。

その後、藻岩は札幌神宮が円山の地に造営される頃から、インカルシペを指す名称となり、現代では藻岩山という名前になっている。

神社の山=円山

これだけを見れば、北海道開拓時代に見られる地名誤伝の逸話である。しかし、これを台北の事例と重ねるとそうとも言えなくなる。

台北にも「圓山」という地名がある。大同区にある30m程度の小山で、日本統治前には近くにある集落から「大龍山」と称されていた。その後、「台湾神社」の造営地とされた頃に「圓山」と改称した(造営地は火災により剣譚山に変更)。植民地統治のための神宮が造営される山はなぜか円山と呼ばれるのである(樺太神社の造営地は旭ヶ岡、札幌の円山近郊にも旭ヶ丘という地名がある)。

名付けの魔力

話は変わるが、日本史において名付けは重要なものである。宇佐神宮神託事件後、和気清麻呂別部穢麻呂と名前を変え、その身を呪われた。亀梨という地名を良くないものと考えた江戸幕府は、亀有と変更した。

逆の事案もある。神話めいた話ではあるが、毘沙門天が武神として崇拝されるのはかの武将、楠木正成の幼名が多聞丸だからという説がある。

かように、名付けは日本人のメンタリティを支配するものがある。

インカルシペから藻岩へ

名付けの話から私が言いたいのは、早山清太郎がインカルシペの由来とその尊崇を知っていたために、その信仰を滅ぼすために敢えて「インカルシペ」に「モイワ」の名を与えたのではないか?ということである。

彼が入植したのは1850年代であり、その頃には各地にまだアイヌが居住していた。その信仰ぶりを彼は肌で感じていたはずである。だからこそ、彼は霊山をもとにアイヌが団結することを恐れたのではないか?

まつろわぬ神の零落

このようなまつろわぬ神々を名付けによって強制的に朝廷に服する神へと転じさせる例は明治期に各所で見られた。有名な例は北口本宮冨士浅間神社、鹽竃神社・志波彦神社である。

北口本宮冨士浅間神社の神は富士そのものであり、その信仰の大元には諏訪信仰がある(この諏訪信仰、出雲信仰やミシャグチなどより多重的な零落を受けている可能性がある)。しかし、明治政府はその祭神を元々は日向の神であったコノハナサクヤヒメ、オオヤマツミなどの皇室に由来のある神とした。

鹽竃神社は弘仁式においては鹽竃神、志波彦神社延喜式での冠川河畔の志波彦大神という由来不明の神を祀る神社であった。しかし、明治政府は鹽竃神を日向の潮流などを現す神塩土翁神とする神話をそのまま採用し、その上志波彦大神を同一の存在として神社そのものを移転してまった。

このような明治政府による強制的な国家神道への組み替えは一村一社運動とも関連して、神道を単一の枠組みで成立する近代的宗教への革新を図るものであった。

大国魂神という名付け

北海道神宮の祭神は開拓三神を呼ばれ、道内の多くの神社に採用されているものである。そのうち、二柱はオオクニヌシスクナヒコナと出雲系の国土開発神である。これを推薦したのは島義勇と呼ばれているが、私は出雲神(オオクニヌシ)を祀った早山清太郎を推したい。早山清太郎は出雲系の神道の信者であり、何かの思い入れがあったのだろう。

最後の一柱(どちらかといえば、こちらが主神ではあるが)は大国魂神である。元々、大国魂神は倭大国魂神と呼ばれ、皇祖神、天照大御神とともに宮中に祀られていた国土の神々を現す神であった。

この思想は古代の大和朝廷には実在したらしく、六所宮と呼ばれた武蔵国総社(後の大国魂神社)の祭神は大国魂神である。また、各所の国土神にも大国魂神の名が与えられている。また、本居宣長も国土神である支持しており、彼の思想が明治期に強力な力を得ていたことも忘れてはならない。

早山はインカルシペにいまします神々に「オオクニタマ」の名を与え、彼らに服従と協力を願い、蝦夷地を皇国土の一つにしようとしていたのではないか。この考えは別に古いものではなく、かつて異国の地であった尾張国武蔵国などにも同様の神社が存在している。

皇国の時代

今から160年前、日本は中世から近代への脱皮を迫られていた。天皇―幕府―藩の領邦社団国家から単一の意識を持つ領域国民国家に変わる必要があった。その暴力的な手段の一つが神社を整理し、信仰を単一化することにあった。その形の究極系が北海道、台湾という二つの未開の地で示されたということではないかと考えている。