日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

2020年代を予測する。

最初に

 今日は1月4日。挨拶回りなどを済ませ、一段落した日だ。昨年、一人暮らしをはじめた東京から実家のある札幌に帰り、家事をする必要もなく手持無沙汰だった。そのためか、学生時代に頭のなかを駆け巡っていたさまざまな妄想が再び頭を巡りはじめていた。今日はこのブログの記念すべき最初の記事として一つの妄想をつらつらと書き連ねたいと思う。

 

周期性の魔力

 平家物語でも語られるように、如何なるものも流転し、常なるものは存在しない。この話は別にオカルト的な次元にも限られるものではない。例えば、経済学においてもコンドラチェフの波などで説明されているものである。
 この人間を魅了してやまない周期性の魔力と正月休みの浮かれた空気を使ってちょっとした分析を行いたいと思っている。

日本の支配権の存立根拠は720年周期で交代する

 日本の支配権の存立根拠は720年周期で変化する。この周期はちょうど古代、中世、近代に比定することができる。また、この720年周期は240年ごとに権力の交代が発生しており、前周期の色を強く残した創業の240年、その周期の色を強く示した継業の240年、後の周期の色を強く含んだ廃業の240年と三つに区分することができる。

  • 古代(~1150年代)

 日本国の歴史について、明確に文字記録として現存しているのは660年代以降になるので、明確な起源を避けることとした。おそらくは崇神朝、応神朝として神話上に語られる王朝にかけて、明確な権力基盤の交代があったと推測することができる。

 それは縄文・弥生時代から続いていた「交易」から「土地」への権力基盤の交代であり、交易路を支配することから土地を支配することに権勢の要件が変化している。この土地支配の制度こそが律令制である。この律令を駆使する勢力を「朝廷勢力」と呼称する。
 しかし、人民統制は中国の皇帝独裁のように十全に機能することはなく、律令制は継業の時代(天武朝)に事実上の崩壊し、有力貴族による外戚支配及び荘園支配(摂関政治)へと移行していくことになる。平安時代(廃業の時代)中期から台頭した武家勢力は平安末期にかけて朝廷勢力から少しずつ「土地」の支配権を簒奪し、平氏政権では、朝廷勢力を完全に超越した。その後のいくばくかの動乱により、朝廷勢力と武家勢力はほぼ対等の権力を有することになる。

 中世の権力基盤は「土地」ではなく「力」にある。朝廷勢力も自前の武力を保有し、自己の土地を防衛することになり、古代よりも宗教という力の重要性がより明確になった。土地は力の存立根拠となり、支配権の源泉ではなくなった。
 また、中世を特徴づけるものとして、二重権力の存在がある。古代は豪族勢力が存在するにせよ、明確な一個の専制権力が存在し、その内部での抗争が主たるものであった。しかし、中世においては朝廷勢力と武家勢力が荘園公領制のもとに滅ぼしあうことなく存在し、両者の内部及び相互において権力闘争が発生することになる。
 この複雑な体制は、創業の時代(鎌倉幕府)及び継業の時代(室町幕府)においては統一的支配の霧散という結果を産むこととなり、空白の時代には全国規模の内戦(南北朝時代、戦国時代)が発生する結果となった。
 この複雑な体制の問題点を解決したのが江戸幕府である。支配権を無形かつ形式的な権威と有形かつ実質的な権力に分割し、権威を朝廷勢力、権力を武家勢力に与えることで事実上の統一的支配の確立を可能にした(この原始的な理論が後に「幕府は朝廷から日本の支配権を委任されている」という大政委任論に発展する)。また、江戸幕府は在地的な武家勢力を中央集権的に支配することが難しいことを長年の争乱から自覚しており、武士団の棟梁を頻繁に交代させる(移封)ことで、間接的な統制を取ることで社会を流動的に階層化させ、安定させることに成功した(社団国家化)。

  • 近代(1870年代~)

 江戸時代に一度も移封されることがなかった西南雄藩と呼ばれる諸勢力は産業革命がもたらした「資本」の思想を早期に取り入れることに成功し、やがて江戸幕府という中世的権力を打倒することに成功した(幕末)。その際、二重権力の根拠として江戸幕府が採用していた大政委任論を活用し、平和的にクーデタを行っている。
 「資本」とは、人々が何らかのものにたいして価値を見出すことそのものである。さまざまな学問の辞書において、多様な定義がされる資本ではあるが、その本質とは「価値」にあるといえる。西南雄藩の新興指導層たちはその意味にいち早く気付いたたために、朝廷勢力そのものを一つの資本として扱い、そこに資本を集中する体制をとった(近代天皇制)。

 この権力基盤は現代においても変わることはなく、日本国はあの壊滅的な敗戦を経た後でも、天皇を中心に多様な資本が寄り添う雑多な支配構造を作り上げている。

日本の支配体制は240年周期

 さらに具体的な朝廷や幕府などの支配体制は240年で交代する。比較的途切れることのなかった古代日本を具体例としてあげる。
 日本の形式的な祖先は現在の奈良県一円に発生したヤマト王権である。ヤマト王権は大和盆地、河内沿岸など支配地を転々しながら、交易路の独占に成功し、やがては日本列島における最有力勢力にまで拡大することに成功した(ヤマトの誕生)。
 430年代からの朝鮮半島における度重なる敗戦に直面したヤマト王権は、交易支配から土地支配による国家統制の強化に目線を向けることとなった。その中で、神話においては応神朝の粛清として描かれる豪族統制を行っていくことによって、畿内一円の豪族を中心とした連合体、ひいては天智天皇を中心とした皇帝独裁へと転化した(継体朝、創業の240年間)。
 670年の動乱により、権勢を獲得した天武天皇は当時の先進国であった唐の律令制を取り込み、更に皇帝独裁の強化を推し進めた。しかし、その中で皇室独裁の成立に寄与した貴族たちが土地を根拠に天皇の権力を簒奪していった。910年代には、何代かの親政もやむなく、藤原氏による外戚支配が確立することになる(天武朝、継業の失敗)。
 その後、何度かの他氏排除を経て、藤原氏による摂関政治は安定期に乗った。しかし、同時に朝廷内に敵が存在しないことは自己の支配体制の腐敗を招くこととなり、力を根拠とした新たな勢力(院政武家・寺院)の台頭を招くことになる(摂関政治、廃業の240年間)。
 このように240年を一区切りにして、支配体制の絶頂と崩壊が繰り返されるのである。

日本で権勢を握れるのはせいぜい80年間

 更に支配者は約3直系世代、80年で交代する。これは江戸時代がいちばん鮮やかに決まっている。

 江戸幕府の真の開祖は徳川家光である。日本の支配体制の確立直後には、まだ旧体制の気風を遺しており、その気風を拭い去るのにおよそ20~30年間の期間を要する。その転換期に戦国的な武断の気風によって強引な武家統制を行ったのが家康、秀忠であり、彼らは旧時代(=戦国時代)に属する人物であるといえる。
 徳川家光は生まれながらの将軍であり、江戸幕府が完成させた合議制を平和的な形に落着させた。また、朝廷勢力から実権からほぼ奪い、武力を背景にした民衆統制を実施し、事実上の日本の支配者として君臨した。
 次代の家綱はその合議制に乗っかり、安定的な治世を果たしたといえる。3代目の綱吉はこの武断的な色の残る家光体制を儒学などの精神的支配の学により、より文治的な方向に導いたといえる。しかし、その実行手段は事実上、武断的なものであり、治世の後半も将軍独裁ともいえる武断的なものに変化してしまった。

 将軍独裁まで行った綱吉の治世の修正を図ったのが新井白石である。新井白石は将軍独裁の根本にあった側用人を存知させながらも、合議制に復した。綱吉の治世のよかったものは残しながら、更にその体制を洗練させた。
 その流れに乗ったのが外戚である吉宗である。吉宗は側用人、合議制を両方とも活用し、幕府の体制を急速に立て直した。その後は、支配権が側用人及び合議制そのものに移管し、田沼意次によって幕政は完成を迎える。

  • 幕府の無能力化(1790~1860年代)

 そこからはほとんど文治体制の安定期の焼き増しのような政策を連発する時代に入っていく。そのなかで、力は権力の源泉としての機能を失い、資本(江戸時代においては貨幣経済)にその役割を移していくことになる。

 

現在は創業の240年間における継業の時代

 翻って、2020年代である。2020年代は明治政府が80年かけて中世的な要素を遺しながらも、確立した資本主義的な政体の絶頂期の終わりである。
 1870年代に事実上の支配体制を確立した明治政府は、その自力救済的な性質を捨てきることができず、1940年代の軍部独裁を招くことになった。GHQによる暴力的な戦後改革は、軍部独裁による暴力的な要素にタダ乗りしたものであり、実質的には国家統制の強化に向けた革新官僚の実権簒奪の一環に過ぎなかった。その結果、出来上がった昭和政府の体制はまさしく大政委任論と資本集中を具現化した体制であった。

人民主権というまやかし


 日本国憲法人民主権を旨としている。しかし、人民主権フランス革命の頃から被支配民を納得させるための叙述トリックであり、核心的階級の権力集中を是認する内容とセットとなっている。フランス革命期では国民公会アメリカでは連邦議会がその核心であったが、日本においては明確に「天皇」である。「天皇」は日本国及び日本国民の統合の象徴であり、すべての公権力の源泉である。この構図はそのまま江戸幕府の大政委任論を近代化させたものであり、権威と権力が完全に分離している。

護送船団という名の資本集中

 資本集中は明治政府においては、政治家と癒着した財閥によってなされていたが、それは同時に自己利益の追求にも直結し、国家公民の利益を前提にしたものではなくなってしまった。昭和政府においては、経済政策を担う大蔵省(及び通産省経済企画庁、他官庁)を軸とした銀行集団が中心となり、国民の資産を含めたほぼすべての資本を間接的に「国有化」することに成功した。
 この両者による日本国家の再統合の結果が高度経済成長及び安定成長である。別に日本はたまたま時期がよくて経済が発展したのではなく、資本の統制的な運用が成功したからこそその必然の成り行きとして経済発展が発生したのである。
 現在はその安定期にある。失われた30年ともいわれるが、社会の発展はないものの、衰退も起こることはない。史上空前に豊かな時代が到来し、ごく一部の不可触浅民化した層を除いては豊かな生活を送ることができている。しかし、その体制も崩壊を迎えつつある。

2020年代以降はどうなるのか?

 2020年代には、昭和政府の作り上げた体制の動揺が本格的に表在化する。一つは増えすぎた違法移民と失われた世代の暴走として、もう一つは本格的な外資の参入である。この二つは明治政府、昭和政府の時代ともに日本国家が資本を弱体化させる要因として、極力排除してきた存在である。彼らによる逆襲が始まる。これからの動態については以下の三つが考えられる。

無能力な政府と世界市民寛政の改革から幕末へ

 このルートがいちばん考えられる。2020年代に続出する社会問題にたいして、強硬な手段を訴える若手政治家が躍進し、1960年代の開発独裁にならった諸政策を行い、分厚い中間層と強力な日本企業の復活を目指す。しかし、数年でその改革は失敗する。その後は、令和政府は無策を取り続け、日本国家の崩壊となるパターンである。

政府の事実上の分裂と外資の躍進(摂関政治型)―後三条天皇から院政

 このルートも十分もありうる。政府が内閣官房を中心とした勢力と財務省を中心とした勢力に分裂し、徐々に財務省が競り負ける構図である。この場合、外国人参政権、IRなどの売国的諸政策が断行され、外資と不可触浅民が既存の体制を遺しつつも台頭し、2100年頃には彼らこそが社会の主役となるパターンである。

天皇権力の復権と経済的内戦(鎌倉幕府型)―文保の和談から建武新政

 次は天皇が不可触浅民を巧みにあやつることによって、強大な権力を獲得するルートである。しばらく従来の方針に固執する安倍政権系統の権力が日本の国勢を握ることになる。しかし、令和の次の御世に強力なリーダーを持つ天皇が出現し、新たな形での社会の包摂を目指すパターンである。いちばんありえない。

 

どっちみちロクな時代にはならない

 なんというか、どのパターンにおいてもロクなことにはならない。できれば、愛国的な諸政策を断行する政治家による中興が見てみたいものだが、そんなものは難しいことは歴史が証明している。私たちはこの終わりゆく国の終わりゆく日々を長々と生きねばならないのである。

新型コロナという厄災

 この記事を書いたときはたしかに「新型コロナウィルスが武漢で流行っている」というニュースを聞いていたし、2019年代後半から少しずつ世界経済にブレーキが掛かっていたことを自覚はしていた。しかし、あのウィルスがここまでのことをやらかしてくれるとは思わなかった。私が2020年の五輪後に爆発し、2024年ごろに本格化すると予測した第二次世界恐慌と移民帰国(暴動ではなく帰国してしまった……)と低所得者層の生活不安による社会不安が同時に到来してしまった。

 やはり予想どおり、安倍首相が田沼意次よろしく無策を連発している。今年は持たないか、もしくは死に体のまま数年は総理の椅子に座らされるだろう。そして、田沼意次浜口雄幸よろしく暗殺される運命にある。まあ、死にゆく旧世代のリーダーはどうでもいい。次のリーダーである。

 私個人としての予想は北海道知事、鈴木直道氏である。道政を8年続けたあとに国会議員へ立候補、そのまま首相選出という流れだろうか。今の時代における松平定信ポジションである。松平定信白河藩における飢饉対処が評価されて、老中首座に昇格した。彼の改革は「再配分の徹底による分厚い中間層の復活」あたりだと思われるが、失敗するのは目に見えている。その後はロクなことにはならない。