日々凶日

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まつろわぬ神々の黄昏―諏訪信仰―

出雲と諏訪

大和朝廷に反逆した神々のなかで、ひときわ大きな影響力を持つ神が諏訪族の神々と出雲族の神々である。両者の神話は大和王権の神話のみを扱い、正史を造ることを目的に編纂された日本書紀においても大きな比重を占めており、この二氏族がいかに大和朝廷で大きな力を持った「野党勢力」であることが伺える。

しかし、この二氏族はその在り方に大きな違いがあった。主に『古事記』に載っているあまり改竄されていない出雲神話において、出雲族の神々は農耕に関わる神として描かれている。この描写は出雲族大和王権と同一の農耕交易民であったことを強調するものである。

一方、諏訪族は後述するが狩猟採集交易民として色が強く、実際に諏訪地方は縄文時代における東日本文化の中心地のひとつでもあった。

出雲に服属した諏訪族

その諏訪族は入諏神話において、出雲族建御名方神に服属する。これは狩猟採集交易民の地域に、農耕交易民が入り込んできたことを象徴している。どうやら下社の大祝・金刺氏の祖先はいち早く農耕に適応したようであり、下社春宮は筒粥神事という農耕祭祀の、下社秋宮は金刺氏の氏神への五穀豊穣の報告を行う場に変わっている。

一方、最後まで抵抗したのが漏矢(モレヤ)神として伝わる守矢氏の祖先であり、屈辱的な大敗を喫した後、自らの猟場である八ヶ岳と祖先崇拝の山である守矢山を建御名方神(おそらく出雲族の一氏族であるミナカタ氏の氏神、意味としては猛きミナカタ)に譲り渡している。以後、漏矢神の一族(守矢家)は神長官として、国政の補助役となり、祭祀の実権を握るのである。

相似形を描く出雲と諏訪

ここまで述べてきて何か既視感を抱くことはなかっただろうか。この入諏神話、大和王権の神話(以下、大和神話)における『出雲の国譲り』とそっくりなのである。

最初、武力を持った神が訪れ、国を譲れと脅迫する。それに対し、長男神(金刺の神、事代主)は抵抗の意味の無意味さを知り、服従を示し、次男神(建御名方神、漏矢神)は徹底抗戦し、敗走する。しかし、服従を許され、一部の政治的権利を獲得するといった話である。

私は『国譲り神話』の原型が諏訪にあると考える。諏訪における一連の武力抗争の逸話をそのまま出雲に塗り替えることで、出雲の服従の過程で起きたことを塗りつぶしたのだ。何が起きたかの話までになると妄想の域に入るので止めてはおくが、おそらく吉備の温羅(本来の吉備津彦)のごとく武力で握りつぶされたのだろう。

実権を保持したままの守矢氏

しかし、そのように引き殺されたまつろわぬ神、漏矢神は賢しい神でもあった。政治的実権を手放すことで、祭祀権を手に入れたのである。いくらミナカタ氏が力で服属しようと、ここは縄文の土着信仰が息づく土地。弥生の信仰では、幾ばくの統治もおぼつかない。そのため、神を降ろす神長官に守矢氏を当て、自らは神を下ろされた現人神として君臨することにした。

これはつまり、上社においてはまつろわぬ神々の祭祀が継続したままなのである。実際に、諏訪大社上社前宮において、狩猟採集民の祭である御頭祭(動物の頭を捧げ、御頭役と呼ばれる代表者が一昼夜を徹して神々と肉食の饗宴を行う)、蛙狩神事(蛙を狩って殺す)、などの血なまぐさい行事が残りつづけ、それを取り仕切るのは守矢氏であった。

危機感を持った大和王権

出雲を征服すると同時に、出雲の交易路を独占した大和王権信濃の山奥にいまだ縄文の信仰が残りつづけてることに危機感を覚えた。そのため、下社の金刺氏に科野国造の地位を与え、彼らの神を「皇祖神の系譜」に加え、彼らに上社の監視の役目を与えた。これと同じことは同時代の阿蘇族にも行われている。

しかし、この事は金刺氏の本来の氏族名、そして神の名前すら分からなくさせた。ここにおいて、下社の神々は出雲、大和の両族によって零落させられたのである。

※この名付けの意味は、以前、北海道神宮の話に記している。

血気盛んな上社

下社に大和王権における優位性を与えることは、上社のまつろわぬ神々となったミナカタ族(諏訪氏)、守矢氏にとっては危機となった。ここから、上社と下社による壮絶な主導権争いが始まった。

確かに、王権は上社を格式の高く畏れ多い神社として扱った。しかし、それは同時に吉備津彦、インカルシペのカムイ、鹽竃神のようにいかに零落をさせるかをつけ狙われる存在という意味でもあった。

この争いは中世に、下社の金刺氏の滅亡という形で一旦の幕を閉じる。下社の金刺氏は滅亡し、武田信玄による保護と武居祝としての再興はあったものの、一度失われた口伝を取り戻すことは難しく、江戸時代には落書きをされるレベルにまで落ちぶれた。金刺の神々は、出雲、大和、守矢によって徹底して零落させられた。このことは神としての滅亡を意味している。

しかし、この危機は明治時代に新たなる形で再臨する。

国家神道化による家職の滅亡

まず、明治直前の廃仏毀釈において、多くの仏閣とともに多くの宮が潰された。
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※赤の印の建物はすべて破却されている。

これにより、諏訪神の抱いていた多くの側面が潰され、出雲族の一氏神という一側面のみが強調された。

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※どうやら諏訪神は妙見菩薩とも同一視されていたらしく、妙見社も現存していた。このことは秩父神社に祀られる神も大元はミシャグジさま(漏矢神の元の名前)であった可能性があることを伺わせる。

また、明治期に入ると神職世襲が禁止され、中央(出雲)から派遣された神職(千家家、北島家)がその祭祀を担うことになる。その事は、金刺氏と同様に神長官の一子相伝の口伝が失われることを示していた。実際に明治以降、口伝は伝えられることがなくなり、守矢家第七十八代頭主守矢早苗氏に伝わっている口伝は一切ないそうである……。

まつろわぬ神々の黄昏

これにより、上社前宮を中心に行われていた縄文文化を色濃く残す数々の祭祀は失われ、現人神・諏訪氏も神長官・守矢氏も単なる人となった。これはまさしく一柱の神とその信仰の消滅を意味している。

実際に、今日歩いて四社を回ってみて、人々は平気で御柱にペタペタ触るし、参ることも私的なことばかりであった。これでは諏訪神も浮かばれまい。神への畏れを失った信仰はたんなるイベントと化すのである。

また、これは神長官・守矢氏と現人神・諏訪氏の影響力を畏れていた大和朝廷にとっては都合のいい結果だろう。実際、このような信仰破壊は上社前宮で徹底的に行われており、昔は聖域であった神原は単なる前庭になったし、禁足地には人々が平気で足を踏み入れていた。また、昭和に造られた「本殿」はなんと伊勢神宮製という徹底ぶりである。
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明治国家の目標は単一的で近代的な信仰を確立することであった。つまり、神道キリスト教(ピューリタン)化である。救世主(現人神)は天皇陛下お一人で結構であり、聖書(神話)も日本書紀一冊で充分だった。さまざまな宗教弾圧を狡猾に生き延びてきた諏訪族もこれには抗えなかったのである。

現代とはまさしく『まつろわぬ神々の黄昏』、荒々しいまつろわぬ神々は消え、和魂のみが奨励され、天皇に平伏しつづけることを強制される。各地で巻き起こる自然災害とは、まさにまつろわぬ神々の叫び声ではなかろうか?