日々凶日

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現人神の認定者―出雲国造神賀詞から読み解く―

今日、上野にある国立博物館で開催中の『出雲と大和』という企画展に行ってきた。この企画展は日本書紀が編纂1,300年を迎えたことに開催されたもので、日本書紀の正史的な神話観に寄ったものではなく、信仰と政治の関係を考古学的見地から分析する実に中立的なものであった。

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中立的であること、つまりは毒にも薬にもならない教科書的な記述であるということになるので、本企画展にたいしては何も感想はない。私みたいな古代史ヲタクから一般人にも楽しめるないようなので、関東圏の読者は是非とも足を運んでほしい。

相似する『国譲り神話』

以前、諏訪を巡ったときに書いたブログにて、建御名方神の来諏神話と出雲の国譲り神話が似ていることを書いた。そこにおいて、その両者が相似している原因について下記のように分析した。

私は『国譲り神話』の原型が諏訪にあると考える。諏訪における一連の武力抗争の逸話をそのまま出雲に塗り替えることで、出雲の服従の過程で起きたことを塗りつぶしたのだ。

この推測自体は合っていると思うのだが、その服従の過程で起きたことを勝手に出雲と諏訪では異なると思い込んでいた。具体的には、吉備のような徹底とした抗戦とその後の粛清を予測していた。しかし、実際には、出雲族は実に賢かったのである。

諏訪の神長官と出雲国造

また、この記事において諏訪大社上社の神長官守矢氏(元々の諏訪湖南岸の支配者)の生存戦略について述べている。

一方、最後まで抵抗したのが漏矢(モレヤ)神として伝わる守矢氏の祖先であり、屈辱的な大敗を喫した後、自らの猟場である八ヶ岳と祖先崇拝の山である守矢山を建御名方神(おそらく出雲族の一氏族であるミナカタ氏の氏神、意味としては猛きミナカタ)に譲り渡している。以後、漏矢神の一族(守矢家)は神長官として、国政の補助役となり、祭祀の実権を握るのである。

彼らは顕世の実権を捨てることで、幽世の実権(祭祀権)を獲得したのである。実はこれの全日本版とでも言うべきことを、出雲氏は行っている。

天穂日命大穴牟遅神

日本書紀古事記において、彼らは天穂日命の子孫とされ、大穴牟遅神に絆され、出雲に定住した一族として伝わっている。しかし、彼らが交代時に天皇にたいして、読み上げる『出雲国造神賀詞(以下、神賀詞)』においては異なる。

「高天の神王高御魂の命の、皇御孫の命に天の下大八島国を事避さしまつりし時に、出雲の臣等が遠つ祖天の穂比の命を、国体見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて返事申したまはく、『豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿なす水沸き、夜は火瓮なす光く神あり、石ね・木立・青水沫も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめむ』と申して、己命の児天の夷鳥の命に布都怒志の命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八島国の現つ事・顕し事事避さしめき。

彼らの祖先神こそが「布都怒志の命(経津主神)」を引き連れて、天下を平定し、国譲りの準備をしたとされている。

しかし、この話は妙に大穴牟遅神の初期の話と符合している。大穴牟遅神須勢理毘売命を獲得するなかで出雲の支配神、須佐之男命を鎮められ、彼から頂いた武具を持って、悪い兄弟神である八十神を悉くうち伏せて国土を平定したのである。

つまり、天穂日命とは出雲が大和に服従していくなかで、出雲族に与えられた新しい氏神であり、彼らの真の氏神大穴牟遅神ではないか。

現人神の認定者

そのように解釈しなおすと、この神賀詞の意味も変わってくる。諏訪において、神長官守矢氏とは祭祀の実権を握る一族であり、大祝諏訪氏の「神秘性」と「正統性」を担保する存在であった。同様の記述が神賀詞にもみられる。

乃ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さむ大倭國と申して己命の和魂を八咫鏡に取り託けて倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐せ、己命の御子、阿遅須伎高孫根の命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築宮に静まり坐しき。

大和の大王こそが、この日本を支配する者であり、元支配者である大穴牟遅神の和魂と親族神を守護のために配置するという内容である。

これを単なる出雲大社の祭司による守護の約束と捉えてしまうが、彼が前の日本の支配者であり、その子孫がこの言葉を述べると意味合いが変わってくる。謂わば、大穴牟遅神が現人神天皇を言祝ぐことによって「のみ」、日本統治の正統性が認められるのであり、その証として三輪山の地に自らの和魂を配したということになる。

この三輪山というのも肝である。三輪山周辺は「卑弥呼邪馬台国」の比定地であり、大和王権の発祥の地でもある。また、播磨国風土記においては、天香久山畝傍山耳成山大和三山がそれぞれの優位性を主張したときに、出雲のアボの大神が取りなしたという話が残っている。

この大和三山、それぞれに磐座が存在しており、古代の豪族たちの氏神が祀られていた山の可能性がある。この山を取りなしたアボの大神とは、元々は三輪山の神であった可能性が高い。つまり、そのような大和においては最高位にあった山を出雲氏は自らの神がまします山として塗り替えたのである。

いくら大和の大王家がその至高性を主張しても、その至高性を認定するのは"油注ぎ"たる出雲氏というわけだったのである。

出雲氏の地位から見え透ける国譲り

このような地位にあるということは、大和王権というのは本来、出雲―大和連合であった可能性が高い。日本海側の交易路を独占する出雲と瀬戸内の交易路を独占する大和、この両者が手を取り合ってできたのが大和王権というわけだ。

しかし、それでは分裂の可能性があったので、両者は丁重に神話を擦り合わせて、顕世を支配する大和と幽世を支配する出雲という構図を造り上げた。この構図には、以前から出雲交易圏に食われてきた諏訪地方における諏訪氏と諏訪土着勢力(守矢、金刺氏)の関係が参考にされたかもしれない。(他にも肥や筑紫、吉備、尾張、毛という巨大勢力があったが悉く滅ぼされるか、同化されたのとは対照的である。)

※諏訪地方は更に二重の支配を受けたことにより、出雲につく守矢氏(上社)と大和についた金刺氏(下社)という構図が激化して、中世に金刺氏は滅ぼされることになる。

幽世の黄昏―仏教と国家神道

皮肉にもこの構図を破壊したのは仏教であった。日本に伝わった仏教は単純明快であり、顕―幽という二重構造によって維持する必要はなくなった。この仏教が浸透していくにあたって、どんどん出雲のパワーは弱体化し、最後には出雲一国だけのものとなってしまった。

更に神道の仏教化(神仏習合)が進むのにあたって、どんどん幽世は零落していき、その地位には密教が君臨することになった。しかし、そのなかでも出雲は特殊な地位を守りつづけることができた。

最終的な破壊者は、国家神道であった。国家神道の目的は神道キリスト教化。天皇が現人神であることは自明の理であり、むしろ"油注ぎ"たる出雲氏天皇神格化の邪魔となってしまった。そのため、出雲大社伊勢神宮を中心とする国家神道の序列にはいることができず、天理教などとならぶ単なる俗説として一教派神道として扱われることになるのである。

 

注:出雲国造神賀詞は下記ページから引用した。

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