日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

恋愛とは暴力である

はじまりは唐突に……

https://note.com/wakari_te/n/n69664c2c07c1

この記事がたまたま流れてきた。話の主体は、非モテと暴力の関係であり、その趣旨にたいして議論の内容も明快で興味深く読ませていただいた。

しかし、所々、納得できないところがある。それは、議論の前提となり、その後の通奏低音として流されてしまった「非モテとはすなわち非暴力である」というテーゼだ。私はとてもそうは思えない。むしろ非モテのほうがある一種、歪んだ暴力を有している点について、述べていきたいと思う。

女装ホモオナニーで崩壊した共産趣味界隈

私は昔、ある一つのアカウントを運営していたことがある。詳しくは伏せるが、分断日本ものの架空国家のアカウントで、当時はその精密さからなかなか気に入られたものだ。

まあ、そういうアカウントにありがちなものであるが、最初はロールプレイに徹していたのに、徐々に自分が発露していくことがこのアカウントにも起きた。

私はそのなかでさまざまな共産趣味者に出会った。当時、共産趣味界隈はそこそこの盛り上がりを見せており、私のような政体、軍服、食文化、ゲームなどなど多様なヲタクが終結していた。

しかし、その業界もある日からどんどん崩壊していくのである。それは一つのツイートだった。

女装してチョココロネでT氏のことを思い浮かべてオナニーをした。

たしかそんな内容だったのを覚えている。昔から、他人にたいして興味のなかった私は軽く受け流したが、その後、その界隈では女装してオナニーをすることが流行した。

そこから誰が誰を想ってるだの野郎同士の見たくもないキャットファイトが頻発し、それを盛り上げるゲスも表れ、クラスタ同士の仲がどんどん狂っていたのである。

最後はT氏の就職にかかる引退をもって、その騒動は終了し、共産趣味クラスタは跡形もなくなってしまった。

最初のツイートをした彼は

その後、しばらく仕事が忙しかったために、そのアカウントから離れていた。しばらく、私の本垢Twitterをつらつらと眺めていたら、衝撃のツイートがあった。

当時、T氏に言われたやられた女装チョココロネオナニーは別にやりたくてやったわけじゃない。ただ自分は認められて、仲良くなりたかっただけだ。

衝撃だった。

私の記憶では、確か本人が進んでやって周囲が引いていたことを、あまつさえ当時の想い人のせいにしたのである……。その時に、私にふと思ったことがあった。

彼は弱者なんじゃないか?

私のいう弱者は、ニーチェ的な意味である。自己の規律を持たず、周囲に流されて生きるだけの存在。蓄群。私にはそれにしか見えなかった。

弱者は暴力を歪んだ形で表出する

ニーチェを引くこともなく、弱者は暴力を歪んだ形で発揮する。道徳としてである。道徳で自らよりも強いものを見下し、自分たちこそがマシだと心のなかで攻撃する。

ヲタクや学者はまさしくこの典型ではないか。自分たちだけに通用するルールだけをそれを知らない人に押し付け、一人で悦に浸る。

それが非モテ、つまりは恋愛という形で表れると先ほどのチョココロネくんみたいな責任の押し付けという形で表れるのである。私個人としては、そのような人間のあり方は「肉」に反するし、潔くない。

しかし、私が言いたいのは別に善悪、選好の次元ではない。誰もが暴力を有している。人間の関係(構造)こそが暴力の発露たる権力そのものであり、誰もそこから逃れることもできないという事実である。

愛とは暴力である

そもそも、恋愛そのもの、特に近代以降の人格主義的な恋愛とは、暴力である。相互を恋人関係に置くことで、相互に相互の肉体的な自由権を抑制し、そのことで愛を確認するというマッチポンプ的なあり方である。しかも、そこで相互に尊重し合うのは自由人としての他者である。

以前、ISTPの女性にも話をしたが、それこそこういうのは「好き」だからするものであり、私たちのような理屈の次元を好む人たちの肌には合わない。

しかし、このアンビバレンツなあり方こそが恋愛の本質である。恋愛とは多罰的、自罰的に相互を束縛することで、圧倒的他者である他人を同一化する(他者性を剥奪する)行為そのものなのだ。

同性愛もその一類型に過ぎない

近代において、その傾向は異性愛も同性愛も関係ない。重要なのは征服する/される関係になりうる他者性を剥奪した他我であるかということである。むしろ、同性のほうが生物学的共通項も多いために、相互征服は可能であろう。

実はこの征服可能性が非モテ(弱者)が同性愛に走りやすい理由にある。つまり、モテ(強者)は、本質的に他者を征服するというのはとても容易な行為であり、男でも女でも食おうと思えば食える。そして、同時にそのような強者に最後までついていけるのは、同様の他我性を持つ強者でしかないので、相互に縛り上げる関係を築きやすくなるのである。

逆に弱者はそのような術を持たない。それがために自らでも征服容易な他者を探すのである。大方は同レベルの男女に収束することが多いのだが、それすらもできない連中は必然的に同性に走る。謂わば、弱者の同性愛とは「代償的な」異性愛、または自己愛的な同性愛と言える。

剥き出しの暴力としての同性愛

ところで、江戸時代までの日本は武威(暴力)がすべての世界であった。だからこそ、江戸幕府という高度なアナーキーかつ新反動主義的な政体が可能であった。その時代における同性愛とは、まったく別物である。

その時代の同性愛とは、異性愛と同じ地平である。しかし、それは現代で言えば物品を所有するような類の行為であり、純粋な征服願望の発露たる暴力である。

自らの所有物たる家臣、小僧、丁稚に手を出し、そして相手はそれを受け入れることで「君臣の絆(所有―被所有関係)」を確認するというものである。そういうもので飽き足りない、もしくは所有できない男性たちは、花街に出掛けることで見目麗しい女性や美少年を手篭めにしていたというわけである。

人間みな暴力を有している

つまり、私が言いたいのは洋の東西、時代も関係なく、誰しも暴力を有しているという実態である。新反動主義とやらにおいては、根源的所有権(主権)なる概念を提唱しているが、私から言わせれば人間が根源的に所有することのできるものは「肉」と「暴力」のみである。

その発露の仕方がある一種、極めて健全なのが非モテ(弱者)のいうモテ(強者)である。欲しいものを欲しいときに欲し、嫌うものを嫌うときに遠ざける。そういう素直な振る舞いができるということである。

一方、その関係性からその暴力を封じられることの多い弱者は、その発露に歪みが生じ、代償的な行為に走りやすいという話である。

※あくまで、私は弱者が「代償的に」同性愛や同類攻撃に走りやすいと言っただけで、生得的に「同性を異性と見なす」もしくは「同性を好む」人のことをバカにしたわけではないことをここに強調しておく。というより、そもそも私は色恋沙汰についぞ興味が湧かないタイプの人間である。