日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

『ミッドサマー』と原始信仰

『ミッドサマー』を観てきた

 ここのところ、Twitterを騒がせている『ミッドサマー』を観てきた。観た感想を正直に言うと、「なんかチャチくさい」である。この作品の目新しさは、ホラーのド定番に北欧神話のアミニズム要素をこれでもかと混ぜ込み、見事に調和させたところにあるが、そのアミニズム要素にそこかしこにどこかヒッピーのような軽薄さを感じさせる。今回は、映画の宣伝も兼ねて私がそのように感じた原因を書いていこうと思う。

※今回は意図せずネタバレを書いてしまう可能性があるので、そういうのが大丈夫な人以外はそっ閉じしてほしい。

通奏低音抑うつ

 まず、作品には通奏低音と呼ぶべき物語全体を流れているトーンがある。『仄暗い水の底から』でいえば「水面」、『シン・ゴジラ』でいえば「(特撮的な)虚構」といった具合だ。この作品の通奏低音は「抑うつ」である。皮肉にも、ここ数十年の近代の流動化とでも呼ぶべき社会の不安定化によって爆発的に広まった「抑うつ」がこの物語そのものに息づいている。

 この物語の主人公の一人であるダニー(女性)は、抗不安剤を常用している抑うつ状態にある。ただでも不安定な彼女は、物語の序盤で双極性障害の妹が起こした一家無理心中に、(彼女自身が一人暮らしだったので当たり前であるが)一人生き残ってしまう。彼女は天涯孤独の身になった自分自身をひたすらに呪うのである。

 もう一人の主人公、クリスチャンは彼女を支えているようなふりをしながら、実態的には共依存に陥っている。彼女を支えるようなふりをしながら何もしないことによって、彼女を自らの許に置き続けている。これを見て、クリスチャンをクソ野郎と評したツイートがあったが、そんなものは理解が浅い。彼もまた流動化している社会によって、自らの人生の道筋の見つからない「抑うつ」状態にある。彼は彼女を介助することによって自らの存在意義をギリギリ見出している。

 上記の現代社会特有の「抑うつ」という病理がここまでかと描き出されている。以前の投稿で、これからの社会はどんどん「解離性同一性障害」じみてくると評したが、現代の社会は間違いなく「抑うつ」的なのである。それと好対照なのがすべてが整っており、明るく狂っているのが今回の舞台、ホルガなのだ。

主旋律―狩猟採集民の信仰―

 物語の舞台、ホルガは古来からの北欧信仰が代々残っている村落である。彼らは自然とともに調和し、72年周期の一生を送り、その生は充実している。生産体制こそヤマギシ会のような「共同農場」であるが、そのメンタリティは狩猟採集民のそれに近い。強き者は強き者として称えられ、弱弱しくなった者は自らの身体を自然へお返しする。ただそれをホラーチックに描いているだけなのがこの作品である。

 これだけでは、何を言っているのか分からない人が多いと思うので、劇中の具体例を上げてみよう。メイクイーンを決める踊りである。あの踊り、映画を見た人には分かるかもしれないが、踊りというよりも総合格闘技に近い。「魔と死ぬまで舞った」などの神話的要素はあくまで装飾であり、その舞踊の本質は「相撲」と同じ力比べである。だからこそ、酩酊性かつ幻覚性の薬物を使用した状態で限界まで踊り続ける。

 物語で供儀として選ばれ、弄ばれる稀人たちが供儀として選ばれたのは当然である。彼ら、彼女らは弱いのである。ヤクを決めて完全にラリちまっているマークも、秘儀を秘儀として尊重できず、自らの思惟するままに暴こうとしてしまうジョルジュとクリスチャンも、投身自殺を見てパクくってしまうコニーも弱い人間なのである。マークは置いといて、それ以外の三者は探究心、寛容、慈愛という近代において称賛される価値観を有することがホルガにおいては「弱い」象徴なのである。

 ホルガにおける美徳とは「役割を全うすること」であり、それ以外のどうしようもない思惟に塗れる連中は明確に「弱い」。だからこそ、供儀を近代から運搬してきたペレとダンは「素晴らしい人々(獲物)を連れてきた」と褒めたたえられるのである。

惜しいところ①:幼児的全能感への逃避

 惜しむらくは、そのような荒々しい信仰をニーチェの超人思想やヒッピー思想と混同したところだろうか。新反動主義などに昇華しつつあるニーチェ思想やヒッピー思想は、その思想的背景に薬物の発展が含まれている。薬物なくしては、両思想も発展しなかっただろう。薬物の見せる恍惚感や一体感(グルーヴ)、全能感が思想の通奏低音となっている。現実を一切、眼差すことなく、自ら完全で完璧な幼児期の全能感へと逃げている。

 この物語もそれが多分に反映されている。監督は「ジャパニーズホラー」をもとにしたなどとほざいているらしいが、どうやらアメリカ人から見たジャパニーズホラーは薬物のバットトリップと重なるのだろうか。一言でいえば、チャチくさい。あのホルガという村が実は古来からの伝承などすべて紛い物のウソで、実は数十年前にカルト宗教教祖が起こした村だと言われれば、すべて理路整然と説明がついてしまうレベルである。

 狩猟採集民の信仰が現代においても強度を保っているのは、「肉」と直結しているからである。薬物などを用いて、幼児的な全能感に逃げるのではなく、自らの身体性、精神性のすべてをもって獲物に対峙する。それに基づいた信仰であるからこそ「強い」のである。『ミッドサマー』が描く信仰そのものも近代に毒された現実逃避的な「弱い」ものなのである。

  その強度を描き切った作品がある。星野之宣作の『宗像教授異考録』の「鬼と鉄」である。この作品のラストにおいて、ずっと鉄と鬼の関係性を追求してきた郷土史家は供儀として選ばれて殺されるのであるが、主人公である宗像教授はその儀式を尊重してあえて「何もしない」。村人の信仰としてその供儀が最高の意味を有し、郷土史家の目的はその儀式を眼差すことであることを知っているからだ。だからこそ、宗像教授はあえて郷土史家の(遺体の)目を開かせてすべてを見せる。正気のまま死体に囲まれて、淡々と儀式をこなす祭司の強さ、郷土史家の遺志を感じ取ってあえて邪魔をしない宗像教授の強さを感じさせる作品となっている。

 ここまでコケにしてなんだが、『共感呪術』という側面に関しては非常によくできている。コニーがクリスチャンと村人の娘とのセックスを見て、パニック状態になったときに宥め方、クリスチャンの感覚操作など描き方は一流である。しかし、こんな程度のものは近代の新興宗教風情でもよくやっているので、どの宗教でも再現可能な事象なのだろう。

惜しいところ②:身体性の欠損

 薬物による幼児的全能感への逃げが同時に身体性への欠如という症状を引き起こしている。儀式や宗教的行為の描写の一個一個が下手なのである。まあ、これが私が日本人のカトリックという特殊性も多分に加味すべきだと思うが、宗教的精神とは聖典などというテクスト論的にいくらでも解釈可能な代物ではなく、儀式そのものに宿っている。正確には、儀式における一所作一所作に宿っている。

 例えば、ミサにおいて、ホスチアとぶどう酒は聖変化という一連の儀式的手順を経ることによって「はじめて」イエス様の御身体と御血となる。具体的には、神父が「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と恭しく唱え、祭壇の十字架(トリエントミサは教会堂の十字架)に掲げ、そして鈴の音とともに信徒が礼拝することによってである。そこにおける無意識レベルの各人の挙動全てがその信仰に向かうからこそ、それは聖なるものとして承認され、聖なるものとして扱われる。

 どうにもそこが甘い。例えば、72歳が投身自殺によって自らの生を終え、次の生に命を託すシーンがある。そこにおける他の村人たちの反応はただただ棒立ちである。いや違うだろと、もっと恭しくかつ尊いモノを見るような目でそれを礼拝するだろう。もしくは、遺体を直視することすら畏れる。死に損なった弱い者を始末するときだって非難するのではなく、もっと恭しくしかるべき措置を取るはずである。その後の人体バーベキュー(火葬)には流石に笑ってしまった。死体をただの死体として認識するヒンドゥー教徒でさえ、もっと人の死をしっかり扱っている。

 他にもと挙げるのは酷なので止めておこうと思う。所詮はアメリカのプロテスタントか、カトリックしか知らない人が他宗教を描いた作品なのでこうなるのであろう。昔、私の教会に来たアメリカ人の神父様は本来、恭しく掲げるはずの御聖体をスーパーマンのポーズで掲げている。本質的に保守的でノンポリな父でさえ困惑して笑ったらしい。伝統のない国の信仰などその程度なのである。

狂気に呑まれたダニー、呑まれなかったクリスチャン

 この作品の素晴らしいところを挙げておこう。それは狩猟採集民という狂気と近代という正気の対比がすさまじく上手いところである。しかも、それが同一個人に表現されている。ここの対比をここまで鮮やかに描けるのは流石、アメリカ人といったところか。

 ダニーは最初、近代社会においてはただの精神を病んでいる弱い女性であった。しかし、彼女の運命はメイクーンを決めるダンス大会で優勝したところから一転する。彼女は近代人の重視するメンタリティにおいては弱かったが、バイタリティは凄まじく強かった。彼女はそこから最大限のもてなしを受け、最後はすっかり弱ってしまった共依存先を自ら切り捨てる。そして、ラストには自ら狩猟採集民の女王として生きることに絶大なる帰属感と安心感、充実感を獲得する。

 クリスチャンは物語の途中から「野蛮も認めよう」などというあっしき多文化共存主義に立つことになる。そのせいで、どんどん精神を狂わせていき、村人の女とシャブを決めた状態でセックスさせられてしまう。その後、正気に戻った後、彼が垣間見た村は狂気そのものであった。それを見てしまったがゆえに、最後は連中の手によって身体障がい者の地位に落とされてしまう。これに現代社会の寓話を感じずにいられないのだが、それは置いておこう。そして、最後はもっとも悪い精霊であるクマの役(これすらもなんだか近代的だなと辟易とするのだが)をあてがわれ、ワケも分からずに燃やされてしまう。

 このような一人の人間のなかに眠る多層的な側面を切り取る妙は日本人の監督ではなかなかできないだろう。人間の役割や精神がクルクルと入れ替わり、狂気が正気に、正気が狂気になる場面転換の面白さこそがこの作品のキモだろう。

日本人ならどうするか

 最後に、蛇足ではあるが、日本人ならどのような対応を取るか考えていきたい。所謂、Twitter大喜利に加わろうという算段である。というよりも、日本人からすれば、ホルガ信仰はあまりにも近すぎるものである。祖霊信仰、生命循環信仰、自然信仰、アミニズムなど日本人は近代化して、コンクリートの都市に住み、洋服を着ているのにそれを棄て去れていないのである。

①:畏れによる尊重

宗像教授伝奇考 (1)

宗像教授伝奇考 (1)

 

 第一は「いや、恐ろしいですが、あなたがそれを信じているならそれでいいんじゃないんですか」という類の尊重である。架空の人物であれば、宗像伝奇、稗田礼二郎中禅寺秋彦あたりだろうか。その信仰が完全に確立されていれば尊重し、そして実害が出ないように触れることなく、そのままにしておくのである。

②:旧習打破による近代化

八つ墓村 (角川文庫)

八つ墓村 (角川文庫)

  • 作者:横溝 正史
  • 発売日: 1971/04/26
  • メディア: 文庫
 

  第二は、それ自体を旧習として否定し、打破することで日本国民の列に並べることである。その皮肉な役回りをしたのが金田一耕助やロードエルメロイ2世である。彼らはただ謎を解き明かしただけである。しかし、その行為ゆえに信仰の本義を破壊し、結果として人々を近代社会に繋げてしまう。ホルガ、もし警察が立ち入って捜査をしてしまえば、ロクなことにはならない。非常に危うい均衡の上に、あの信仰は確立されている。中禅寺秋彦、だからこそ「探偵」そのものを嫌っている。

③:何もしない

トリック劇場版

トリック劇場版

  • 発売日: 2014/07/16
  • メディア: Prime Video
 

 最後は、何もしないである。日本人は長年の慣習からか直感的にやってはいけないことを知っている。 だからこそ、触れないことをすることで逆に解決してしまうのである。トリックのメインコンビあたりが相応しいだろうか。