日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

連続体化する社会

エピステーメーというメタ認識

 エピステーメーとは、フーコーの著作『知の考古学』や『言葉と物』において提唱される哲学的概念である。時期によって、その概念の意味合いに変化は生じるが、大枠は以下のようなものである。

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学 (河出文庫)

 
言葉と物―人文科学の考古学 (1974年)

言葉と物―人文科学の考古学 (1974年)

 

 人々はある時代を支配する知的な枠組みに思考を制御されており、その枠組みに従ってさまざまな創作を行う。

 その枠組みそのものをエピステーメーと呼ぶ。クーンのパラダイム概念とよく似ているが、クーンがあくまでその適用を科学の意識的な範囲に限定したのにたいし、フーコーは無意識レベルまで押し広げたことに違いがある。フーコーは中世から近代にかけて、3つのエピステーメーが交代してきたとする。

中世のエピステーメー:類似

 ミクロコスモス、マクロコスモスに代表されるように、中世のエピステーメーは類似である。似たものは似たものであるからこそ、両者を写し鏡のように相互に影響しあう。例えば、目の模様があるものは目の模様があるからこそ、目そのものになりうるのであり、如何なるものを見通す魔除けになる。

近世のエピステーメー:一覧表(表象)

 博物学に代表されるように、近世のエピステーメーは「一覧表(タブロー)」である。私たちの知っているものごとを一覧表として余すところなく記述しようとする姿勢そのものである。例えば、近世に生まれた博物館においては、自分たちの知っている事物を余すところなく陳列することを目的としている。

近代のエピステーメー:分類(人間)

 近代のエピステーメーは分類である。正確には、近世(古典時代)は表象、近代は人間であるが、分かりづらいので、こちらの定義としている。分類は有限のもの(人間)を余すところなく、分割しつづける行為である。その分類という行為によって、有限のもの(人間)の全体性が明らかになり、分類されたものの役割と歴史性が明らかになる。例えば、近代医学は死体をもとに成立する。死体を解剖し、その解剖から生体機能を類推することを通して、人間というものの生機能の全体を理解する。

 エピステーメーはその構造主義的な性質ゆえに、脱却の可能性が難しく、どうしようもない無力感に囚われることが多い。しかし、これを理解することは私たちがどのような思考するに至ったかを分かりやすくするのである。

現代のエピステーメー:連続体

 やっと、本日の話である。フーコーが予言していたように、近代的人間の終焉はもう訪れている。彼らが行った分類からの統合、それによる全体性の理解という行為そのものがそれの登場を予見していた。分類の次に訪れるもの、それは連続体(スペクトラム)である。

連続体とは何か

 連続体は物事の分布範囲ともいえる概念である。ある共通している性質を有するものをいくつか指標をもとに、並べることで物事を理解を深めることでもある。例えば、自閉症スペクトラム障害という概念においては、従来、自閉症高機能自閉症アスペルガー症候群などに分類され、それぞれ隣接する疾病として理解されていた一連の障害に、言語発達と知能指数という指標をもって一連の分布として包含している。

 これによって、従来はいづれかの障害によって拾いきれなかった人々を包含することができ、また従来は障害とされなかった人々を「軽度の」自閉症スペクトラム障害として扱うことができる。近代の分類という操作においては、別の理由で峻別されていた人々を包摂することができ、「狂気」と「正気」などと分類されていた状況をより一体のものとして扱うことができるようになる。

融解する主体、創成される連続体

こちら、幸福安心委員会です。

こちら、幸福安心委員会です。

 

 この連続体の社会全体における作用では、「壁」を破壊するものとして作用する。昨今、世間を賑わわせているボーダレス化等はまさにその現れに過ぎない。人々が近代に行った「分類」という行為そのもので培われた部分と全体性という概念そのものを、全体性を連続的にさまざまな主体に適用することで、すべてのものは融解し、一体化(連続体化)する。

 2010年代に、ヲタク文化を中心において猛威を振るったメディアリミックスにおいては、ボカロ曲、小説、漫画、映画、どのような媒体で作成されたものにおいても、資産価値があると評価されれば、すぐさま他の媒体でも表現され、その作品はその全体をもって評価される。

 例えば、上記の『こちら、幸福安心委員会です。』はもともとボーカロイドの歌うとして投稿された。その後、多くの「歌い手」による歌ってみたが投稿され、後には、最初に示した小説となり、漫画まで発行されている。それぞれはそれぞれに独立した創作物であるが、その創作物単体をもってその創作物を評価することは難しい。連続体としての『こちら、幸福安心委員会です。』が評価対象となるのである。

 別にこれは文芸方面に限られたことはではない。政治においては、保守主義を掲げる政党が移民推進を促進するようになり、自由主義を掲げる政党が伝統を謳いはじめ、両者の政治的地位は急速に接近しつつある。経済においても、資本家や労働者という独自の地位は失われ、すべては資本という連続体に吸収され、人間が労働の主体ではなくなり、融解した資本と化しつつある。

全体性を喪失する主体

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

  近代の主役である個人の側面から眺めると、連続体は個人を破壊する。元々、近代の確立した全体性(心理学でいう自己同一性)という概念は、現実の生活に馴染まないものであった。我々は近代人であるからこそ、私という物事の判断を下す主体がいることを当然視する。しかし、それはそうなのか。私たちはただ周囲の社会的文脈に要請された行動を取っており、それに合わせた人格を創作しているだけではないか。連続体は私たちにそう語りかけるのである。

 私は昔からネットのなかに生息してきた民なので、歌い手、生主、YouTuberなどさまざまな人々が出てきたのを覚えている。そのなかで、どう考えても「こいつ」だろうと思われる人々が出てくる。しかし、彼女(彼)たちはそのなかでも「別の人間」としての生を演じることをなんなくこなしている。あるVtuber曰く「ガワに魂が引っ張られる」というのである。彼女たちにとっては、彼女自身、生主としての彼女、Vtuberとしての彼女がそれぞれ矛盾なく成立するのは当たり前のことなのかもしれない。

 しかし、これは近代という枠組みから考えれば、明らかに全体性の喪失そのものである。私という全体があり、その構成要素としてそれぞれのペルソナがあるのであり、そのペルソナが矛盾を抱えてしまっては「解離性同一性障害」を発症してしまう。それを防ぐために、思春期までの教育で徹底して自己同一性を子弟の身体に叩き込む。近代以後の時代においては、ある場面ではA、またある場面でBと本気で発言することが当然のものとして扱われるようになるかもしれない。

ボーダレス化、グローバリゼーション、多文化共生、過剰包摂

後期近代の眩暈 ―排除から過剰包摂へ― 新装版

後期近代の眩暈 ―排除から過剰包摂へ― 新装版

 

 1980年代以降、社会に生じているさまざまな潮流はすべて連続体化しつつある社会の現れである。すべての全体性は部分に分解され、その部分をもって連続体が構成される。その連続体では相矛盾する言表も言説もそれぞれに「真」として肯定され、すべてが間違っていない優しい社会が構築されつつある。私が信奉するファシズムも、ポピュリズムもすべては近代という敗者の思想に過ぎない。

 グローバリゼーションはすべての国民経済を破壊しつつあり、地球すべてを単一の連続的な市場へと形成しつつある。イギリスは持ち前の「ブリカス精神」で、その潮流に逆走しようとしているが、そのようにしてもそれは連続体のなかの極点として分布するだけである。ボーダレス化は均質新世とでも呼ばれる生物多様性の減少をもたらし、それぞれに固有の文化を築き上げてきたものを破壊しつつある。それらによって、構築されるのが本来、異なるはずの人々、自然、地域が一つの同一指標によって止むを得ず同一視される過剰包摂の世界である。

 上記の著作『後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ―』では、ナイキの靴が範例として示されいたが、現代日本においてはYouTuberこそがその範例として相応しい。


【100億回】シルクロードの新居ルームツアーが半端じゃないことに!?

 上記のYouTuberユニット「フィッシャーズ」は現在、日本最大の再生数をほこっている。しかし、彼らの性情そのものはどこにでもいる兄ちゃんそのものであり、それに共感を抱く視聴者も少なくはない。彼らと視聴者は地元(フィッシャーズでいう葛飾区)や遊びという共通する要素をもって、一つの連続体を構成している。

 このような話をすれば、松田聖子やAKBなどをもってその類似性を語る人々が出てくるが、彼女たちと彼らは根本的に異なる。松田聖子などの昭和のアイドルは紛れもなく崇拝対象であり、AKBは干渉できる鑑賞すべき対象であった。彼女たちと共通点があろうと直接触れ合うことは難しく、どこか「壁」を感じるものであった。

 しかし、彼らと視聴者との間には「壁」は存在しない。彼らと視聴者との間には多くの共通点がありすぎ、同一指標(地元感覚、遊び、スクールカースト等々)で分布に置くことができる存在である。彼らに近いアイドルを強いてあげるとするならば、アイドルマスター シンデレラガールズに登場する「夢見りあむ」だろう。

 ここで肝要なのは、実際の彼らと視聴者との間には「壁」が存在することである。彼らは確実に多数の資産を所有しているスーパースターであり、その生活態度は一般人のそれとは異なる。端々にそれを感じさせる行動はあるが、無意識のうちにそれを見せていないのである。

 彼らはときに壮大な夢を見せて、多くの視聴者たちを魅了する。それに魅了された視聴者たちがより多くの時間を投資することで、彼らはより多くの資産を保有することができる、無意識のうちに。カーリーよろしく多くの人々を包摂することで、多くの人々を吐き出す。過剰包摂そのものである。

どうしようもない近代人=自分

 このような状況が創出されはじめたのは、明らかに1980年代のポストモダンの潮流である。1980年代に横溢したフランスのポストモダニストの思潮が社会を一つずつ塗り替え、1980年代末にはヨーロッパ・ピクニックが起こり、1990年代には「第三の道」と新自由主義が提唱されたのである。2000年代のインターネットの一般化により、その思想は爆発的に流行し、社会全体の気色が変化した。ここから「現代」が始まったのである。

 日本において、このエピステーメーの分断線が引かれたのは、1990年代後半生まれからだろう。私は1994年生まれの25歳、イマドキの社会人などと言われるが、どう考えても「近代側」の人間である。1994年という境界線に等しい生まれだから、新しい時代の思潮もよく分かる。しかし、私はどうしようもなく、おっさんたちの語る昔の会社の雰囲気が好きな古臭い人間なのである。