日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

ディストピアもの私論―不都合な日常と私たちの違和感―

BIG BORTHER IS WATCHING YOU

 今日は自転車で近所のカトリック教会を巡ってきた。何かブログのネタを探そうとも思ったが、特にそれらしきものは見つからず、約3時間・約20kmのちょうどいい運動にはなった。しかし、帰宅したときに善き便りを友人が送ってくれた。


【全部私の声】Big Brother / 平沢進

 セリシア兄貴姉貴の動画である。この友人、養護施設職員で現在抑うつで休職中なのだが、もともとは合唱部、アカペラと歌の分野に生きてきた人なのである。そんな友人が選ぶものが酷いわけがない。その期待通り、素晴らしい作品だった。

ディストピア小説とは?

 セシリア兄貴姉貴がカバーした作品『Big Brother』は、ジョージ・オーウェル著『1984年』をモチーフにした作品である。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

  しかし、この小説、というかディストピアもの自体が勘違いされている節がある。ディストピアものは『少女終末旅行』のようなポストアポカリプスものでもないし、『日本「人民」共和国』のような反共主義の宣伝小説でも、コズミック・ホラーではない。いわば、日常懐疑、私たちが何ともしないものを疑う小説なのである。

 ここでこれから述べることを完結にテーゼとしてまとめておこう。

 ①ディストピアものの主眼は制度である。

 ②ディストピアものは反体制の寓話である。

 ③ディストピアものに主人公は存在しない。

ディストピアものの主眼は制度である

dasun-2020.hatenablog.com

 『ヨルムンガンド』のときにもさらっと紹介したが、小説には作者の意図があるというのが私の主張である。テクスト論ではなく、明確に作者論に立つ。『ヨルムンガンド』では、物語の最後半に、武器商人ココは全世界の情報を自由にできる権能を手に入れ、全知全能の女王として君臨する。しかし、ここで描かれる世界は別にディストピアではない。ここで描かれる世界はあくまで女王ココと人間ヨナの対立であり、彼女たちの再会という「ボーイミーツガール」ものである。

DEATH NOTE モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

DEATH NOTE モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 同じことが、『DEATH NOTE』でもいえる。『DEATH NOTE』の後半では、キラによる全世界の恐怖政治が完成している。これを指して、「この漫画はディストピア小説の側面があり……」などと知った顔で述べる専門家がいるが、まったく分かっていない。『DEATH NOTE』の主眼は「キラとLの知的バトル」ものである。前半では、ごく普通の日本でキラとL本人が、後半では、(キラにとっての)理想郷となりつつある世界でのキラとLの後継者(ニアとメロ)による知的ゲームが繰り広げられる。この物語はこの知的ゲームを楽しむためのものであり、それ以外の要素は知的ゲームを彩るための「飾り」に過ぎないのである。

華氏451度〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

華氏451度〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

 

  それにたいして、『華氏451度』の主眼は制度である。私たちが今、生きている社会。渇望することで、検索することですべてが手に入る社会。そして、それを求めるあさましい人間そのものである。『華氏451度』のあらすじは以下のとおり。

 『華氏451度』の主人公ガイは、焚書を担当するファイアマン(昇火士)である。彼の生きている社会では、火事というものはほぼ起こらなくなり、自分の追い求める快楽はすべてテレビを通して手に入るようになっている。彼はその社会に疑問を持っていなかったが、ある時、隣に引っ越してきた少女クラリスと出会ったことにより、焚書するために集めていた本を読み漁るようになり……。

 ここだけを読めば、ただのボーイミーツガールものに見えるかもしれない。しかし、この話の本筋は、個々の描写そのものである。危険を感じられるように改造されたスーパーカー、壁そのものと一体化しそこに自分の映したいものを映せるようになったテレビ、どこまでもいつまでもつづくバラエティ番組。それによって描かれる快楽のための知の放棄とその狂気、それを彩る制度そのものこそが、この作品の主題なのである。

ディストピアものは反体制の寓話である。

AKIRA(1) (KCデラックス)

AKIRA(1) (KCデラックス)

 

  『AKIRA』の世界もまたネオ東京崩壊前、崩壊後ともに、理想郷とはいいづらい社会である。人々は退廃し、腐敗し、そして無気力になっている。そういう社会だからこそ、敷島大佐はクーデタを起こし、金田少年はバイクを乗り回し、気に入らない相手を殴りつける。自らの拳を扱うことによって、社会に風穴を開けようとしているのだ。ここだけを見れば、『AKIRA』も反体制の寓話ということができるだろう。

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

  ディストピア小説の主眼とする反体制は、そことは異なる。ディストピアものの主眼は「制度」である。人々を取り巻き、そしてその行動を担保する制度、それがディストピアものが描きたいものである。

 『ハーモニー』の主人公の一人、霧慧トァンはWHOの上級監察官である。彼女の生きる社会は生命主義という人類の生命の健康を第一とするコレクトネスに支配されており、それに合わせて「Watch Me」なる常時健康監視アプリケーションが人体にインストールされている。これを人体に導入することで、人類は病気から解放され、誰もが綺麗で美しく生き生きとした生活を営めるようになっている。彼女はその社会において、生命主義の立場から発展途上国を支援し、紛争を解決する現代の「平和維持活動軍」の指揮官のような仕事に就いている。

 実の彼女は健康そのものではない。万病のもとである(正確には、生命主義の教義においては「そうされている」)飲酒、喫煙に手を出し、それを「Dummy Me」なる違法アプリでだましている状態にある。彼女は体制のなかに存しながら生粋の反体制なのである。

 しかし、これだけでは単なる健康優良不良少年と変わらない。彼女の反体制はその精神まで深く刻みこまれている。それには、もう二人の主人公、御冷ミァハ、零下堂キアンが必要不可欠となる。

 御冷ミァハ、物語の当初は「自殺している」。彼女は生命主義にとても挑発的な人間で、社会をうまくハッキングしながらそれに反する活動を行っていた生粋の危険思想家である。霧慧トァンは学生時代に彼女と出会う(この時点でもう一人の主人公、零下堂キアンと出会っている)。彼女たちは御冷ミァハに心の底から心酔し、集団餓死を決断してしまう。まあ、その集団餓死自体は失敗するのだが、彼女たちが死んだとき、彼女たちに御冷ミァハという意志がそのままインストールされてしまったのである。そのまま彼女たちは大きくなり、片や世界を飛び回るエリート、片や世界を守る一般市民となったのである。

 ディストピアものの金字塔『1984年』において、高級幹部党員オブライエンは主人公ウィンストン・スミスを拷問に掛けながら、「私たちは形だけの服従を望んではいない。心からの服従を望んでいる」と語りかける。ここにディストピア小説における反体制の意味が凝縮されている。ディストピア小説の描く反体制とは、「精神的なレベル」にまで刻みつけられた反体制の精神そのものなのである。

ディストピアものに主人公は存在しない。

 ここまで来てようやく『1984年』に戻ってくる。『1984年』がドラスティックに描いているが、ディストピアものに主人公は存在しない。語り手たちは、ディストピアそのものを観察するためのレンズであり、反体制という精神そのものの寓話なのである。

 『1984年』の語り手ウィンストン・スミスは、世界を支配する三大国家の一つオセアニアの真理省職員である。彼は記録局という「歴史改竄を主務とする部署」に勤めており、日々自らの仕事の意味に疑問を抱きながら熱心にこなしている。ある時、彼女はジュリアという女性と出会い、国家に公認されない恋愛という反体制的な行為を始めてしまう。

 ここまで書いてきたが、この小説の主眼は別に彼女たちの恋愛物語にはない。逮捕以降の再教育の過程でもない。ウィンストンが観察し、思考するすべてである。ウィンストンはどうも物事を深く考える質の人間らしく、「思考犯罪は思考した時点で終わり」だの、「自分の身体をすべてぶち壊しにするような捨て鉢の勇気がないから、ここまで生きてきてしまった」などなどいろいろなことを考えている。また、後々、蒸発してしまう同僚サイムは自分の仕事である「言語の絶滅」という行為について嬉々として語ってくれる。

 そういう日常のふとした一コマにこそディストピアの反理想郷性は凝縮している。彼が拷問を受けている最中に、「私には『2+2=4である』という自由がある!」というと、すぐさまオブライエンが「いや、そんなものはない。党が2+2=5といえば、5なのだ。」というところにオセアニアの自由のなさが、サイムが嬉々として言語の絶滅を語るときに、「ああ、こいつ蒸発させられるな」と思うところにオセアニアの薄情さが、「思考犯罪は思考した時点で終わり」と独り言ちる瞬間にオセアニアの絶望が顕れている。むしろディストピアものとは、そのような日常生活を送っているときに感じるふとした違和感を書き留めるために存在しているのである。

ディストピアものとはおかしな日常である

 ディストピアものとは、おかしな日常を描くものである。ジョージ・オーウェルは1948年に赤狩りが横行する「自由主義社会」イギリスを見て『1984年』を書いた。伊藤計劃は病院において、あまたの管につながれ、自らの生がパッケージ化されて、規格化されたものに変わっていく瞬間を見て『ハーモニー』を描いた。他の小説家たちもふとした違和感を記した結果、所謂ディストピアものとなっていったのである。

 この性質は、他の創作物とは一線を画するものである。例えば、ポストアポカリプスものにおいては、主眼はポストアポカリプス(終わった世界)ではあるが、そこで描かれるものは終わった世界を賢明に生きる人々である。私小説などと似ている部分もあるが、そこで描かれるのは全体的な生そのものであり、違和感ではないし、フィクションになることもない。

 ディストピアものとは、人々が普段生きている日常を作者の目線からスライスし、その奇妙な部分、恐ろしい部分を切り出す一種の凶器(狂気)なのである。