甘ったるい言葉に隠されたもの
何でも差別の世の中
現代はどれだけ綺麗なおしゃべりができるかがもっとも重視される時代である。職場においても、○○ハラスメントとみなされる言動は排除され、そこかしこでコンプライアンスが叫ばれる。
しかし、私はどうしてもその風潮に馴染めない。なぜならば、その曖昧な姿勢こそが知への敬意を歪め、バカに迎合することこそが知と勘違いをもたらす源泉だからである。
女性はバカが多い
私の回りにいる女性、特に私が好き好んでやりとりする女性はたいてい、ある程度の知的水準にある人が多い。逆に、世の女性の知的水準はとても低い。
私は職業柄、ガールズバー等に連れていかれることが多いのだが、そこでの会話に知性を感じたことは一度もない(しかし、ちゃんと会話や遊びには付き合ってあげる。これも知性である)。
また、市井の若い女性の行動には美が伴っていない。日々の動き、発言すべてに知は表れる。地下鉄やスーパー、ファストフードなどで周囲の状況を考えずに喋りまくる女子高生、オバサン。スタバなどで気取って勉強してるふりをする女子大学生(これは無論、野郎もそうである)。その行動のどこに美とそれを裏打ちする知があるのだろうか。
知的水準の社会的背景
この話は無論、私見ではあるが、何も知に裏打ちされない文句ではない。ブルデューという社会学者の考えが下地にある。
ブルデューは知を資本として捉えた(文化資本)。文化資本は主に教育によって伝えられ、それが身の回りにある人間には特有の振る舞いがみられる。これをハビトゥスという。まあ、このハビトゥスや文化資本の継承に必ず偏りがあって、必然的に社会の階層化をもたらすというのがブルデューの真髄なわけである。
これを現代日本に当てはめると、日本においてはある時期から所作や立ち振舞いなどのハビトゥスが男女ともに継承されなくなった。かつ、当たり前であるが、日本において文化資本を独占してるのは男性である。そのため、女性はほぼ唯一有していた所作におけるハビトゥスをも喪失し、知的水準が全体的に落ちたというわけである。
すべての責任は男にある
女性の知的水準の低下の原因は完全に男性にある。日本人の男性が知に敬意を示さなくなったがために、女性たちが所作や振る舞いを覚えることを切り捨てたのである。
古来、日本において一部の例外はあったものの、夫婦・夫妾関係は一種の敬意の上に成り立っていた。男は口に出さないものの、妻や妾の影の努力を労り、妻はそれにさらに応ずるというものである。
バブル時代、すべてが商業資本(=金で買えるもの)だと思い込んだ日本人はその関係を捨て去ってしまった。アングロサクソンにおける1920年代、フランスにおける1960年代のように、それが女性の知的門戸解放に繋がれば話は変わっていたかもしれない。しかし、日本はそれを女性の社会進出という名目の企業への奴隷化とバーターにしたしまったのだ。すべての責任は男にある。
知への敬意を取り戻そう
日本人は古来より知への敬意が弱い民族である。自力救済を旨とし、文化資本よりも経済資本、経済資本よりも武力、信仰と確固たる自己を持ちたがらない。だから、私は多くの日本人女性と男性を軽蔑するのである。
逆に、どれだけ文化資本が乏しくても知に一定の敬意を示す人間は大好きである。私は実際にそういう謙虚な人をたくさん見てきた。そのような方々は少しずつでも文化資本を吸収し、他社への敬意を兼ね備えることができるようになろう。
私はそういう人にこそまだ日本復活の可能性はあると思う。