日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

健全な発達

健全な発達とは

MBTIの目的の一つが自分の性格類型を把握することを通して、その類型からあえて逸脱して(おそらく代償的な心理機能の使用)全人的な発達を目指すことにある。この理屈自体に、私はどうしようもないアメリカ的なプラグマティズム心理主義を感じるわけだが、それは横に置いておこう。プラグマティズム心理主義の蔓延による自己責任の内面化(自己コントロール)については後ほど、詳しく論述することにする(私はあくまでリアリストのため、心理主義には超批判的である)。

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

  • 作者:森 真一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2000/02/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

まあ、MBTI自身にもアドラー心理学のように、自身をコントロールすることを通して逆に自らを定型に当てはめる危険性があることを自覚してくれればいい。MBTIにおける健全な発達とは、まさしくこの全人的な発達であり、自己コントールによる性格の緩和である。今日はそれが上手くいったと思われる人間と失敗したと思われる人間を上げてみよう。

ISTJ

健全な発達例:アンゲラ・メルケル*1

不健全な発達例:セイバー(Fate/stay night

典型的な保守主義者である。自らの経験してきた慣例や精神性などを重視し、それを外部の準則に当てはめて行動することを好む。エリザベス2世陛下などの王族もここに分類されることが多い。

健全に発達をすれば、典型的な調整型のリーダーとなり、人々を保守的ながらも漸進的な体制へと引っ張っていける。逆に、自身の慣習に囚われすぎると、自らの理念のために弱者を切り捨てる公平無私な独裁者に転落する。要は、自らの価値観と異なる人物をどのように受容していくかがキーとなる。

ISTP

健全な発達例:ブルース・リー

不健全な発達例:タイガー・ウッズ

自らの内面にある深い世界観を具体的な方法で表現する人である。仕事は仕事、遊びは遊びと割り切りながら、どちらにも自らの美学を反映せずにはいられない困った職人気質。人口の少数ではあるが、役所からスポーツ界まで「分かりやすい」世界の隅々に生息している。

健全な発達をすれば、爛熟した職人となり、他者の意見を取り入れながら自らの美学も表明できる「頼れる大人」になる。不健全な発達をした場合は、自らの美学に拘泥するか、代償的な快楽を走るようになり、家庭問題を頻発させるパターンが多い。他者の価値観をどのように自らにアップデートさせるかが課題である。

ESTP

健全な発達例:ジョージ・W・ブッシュ

不健全な発達例:少佐(HELLSING

自らの経験を糧にして生きる人。遊び、仕事などさまざまな経験を内心の理屈に当てはめて選別し、使えるときに使い倒す人生というゲームの攻略厨である。こちらも人口は少ないが、伝統的組織や企業のトップに君臨することが多い人。

健全な発達をすれば、少々「知性」は疑われるものの、確実な決定を迅速に下せる素晴らしい上役となる。不健全な発達をした場合は、自らの成功経験にこだわり、部下を死に舗装された道に突っ走らせるヤバい人になる。自己の成功体験にどこまで囚われないかが成功の鍵である。

ESTJ

健全な発達例:磯野波平

不健全な発達例:剛田武*2

組織のための判断ができる人。仕事に一所懸命に取り組み、外部の準則をもとに周囲の仲間を守るために必要な決断を下すことができる。伝統的な組織の上層に多く、人口も多いため、そこかしこで見ることができる。

健全な発達をすれば、一般的な伝統組織における幹部のような存在になる。つまり、組織のために第一の行動を考え、それに人情を加味できる存在である。不健全な発達をした場合、自らの信じる準則が第一の周囲を顧みない暴君へと成り下がる。他人の価値観をどう加味していくかが人生の課題。

ISFJ

健全な発達例:磯野フネ

不健全な発達例:エミヤ(Fateシリーズ)

周囲のために細かい気配りのできるサービスマン。周囲の心のありようや雰囲気を敏感に感じ取って、そのときになすべき判断を適切に下すことができる。こちらは戦後においては専業主婦に多く(この性格類型に擬態した女性も多い)、日本社会を裏から支える良妻賢母像はまさしくそれ。

健全な発達をすれば、いざというときに裏から手厳しい指摘もできる社会の擁護者となることができる。しかし、そのような厳しい準則に触れられなかった場合、最期まで周囲の雰囲気としての「正しさ」に翻弄され、少数を切り捨てる恐怖政治の実行者にもなる。情緒的な論理ではないものにどれだけ触れられるかがカギ。

ISFP

健全な発達例:セーラ(小公女セーラ

不健全な発達例:マリリン・モンロー

周囲のために献身のできる心優しい宗教家。自らの幼少期に経験した環境や欠落していたものを追い求め、実態的な形で獲得しようとする。物静かだけどどこか真の強さを感じさせる人ではある。正直、ISTPとは真逆の存在なのでよくわからん。

健全な発達をすれば、どこまでも不正に耐えることで戦い抜く強い女性となる。不健全な発達してしまった場合、他者依存的な人間になり、どこまでも自分のない扱いやすい女になってしまう。自己の価値観を確立し、それを堅持できるかがカギ。

ESFP

健全な発達例:ロナルド・レーガン*3

不健全な発達例:マドンナ*4

目に見えるすべてのものを楽しみたいと思う享楽主義者。目に見えるすべてを美しい、楽しい、チャレンジしたいなどの指標で見極め、それを味わい尽くすことが人生の目的。芸能界とか戦国時代の茶人、江戸時代の歌舞伎役者にとても多いと推測される。

健全な発達をすれば、自らの目的を果たしながら他者の要望も叶えることのできる素晴らしいサービスマンになる。不健全な発達をすると、政治の世界にまで美学を持ち込んで、無用の混乱をよく引き起こしてしまう。自らの欲望を上手く制御することがカギ。

ESFJ

健全な発達例:エディ・マーフィ

不健全な発達例:田中角栄

周囲の秩序を重視して、その和を守ったり活用したりする人。典型的な親分気質で、下に従う者には安心感を、上位者には心地よい優越感を与えることのできる人。政治家やコメディアンにとても多い。

健全な発達をすれば、周囲に笑いと安心感をもたらすことのできる人物となり、伝統主義者ながら温和な姿勢を示すことのできる人物となる。不健全な方向に走ってしまった場合、いつまでも親分の立場にこだわるためにすべてを失うことになる。自らの立場に拘泥しないことが成功のためのカギ。

INFJ

健全な発達例:マザー・テレサ*5

不健全な発達例:アドルフ・ヒトラー*6

自らの霊感的な何かを他者と共有できる人。彼らの行動は多くの人々を魅了し、一部を信者に作り替えていく。はた目から見れば自信のないように見えるが、とても自信に溢れた高飛車な人物。アッシジのフランシスコなどもこの類型に入ると思われる。

健全な発達をすれば、万人に宗教的な道徳心を回帰させることのできる素晴らしい思想家になれる。不健全な発達をした場合、周囲の人々をどんどん不幸にしていくカルト宗教の教祖になってしまう。周囲の状況をよくよく見極め、自らの行動をしっかり論理的に後付けできるかがカギ。

INFP

健全な発達例:ピカソ*7

不健全な発達例:ジョン・レノン*8

自らの美学を追い求める者。あまりに愚直に発達しすぎると、社会的生活が送れないけど才能だけはピカイチの残念な芸術家が出来上がる。たいていはISFPやISTJに擬態しながら、うまくやりすごしている。人生RTAがあったら、すぐにリセットされてしまう性格類型。

健全な発達をした場合、多くの人々を心の底から動かす素晴らしい芸術作品や表現を追求できる。その芸術は探偵や仕事などの論理的なものでも可能である。不健全な発達をした場合、それを政治に持ち込んで、たいていかなり痛い目に遭う。人生を攻略するキーは政治に迂闊に手を出しすぎないこと、もっともらしい準則なしに暴走しないこと。

ENFP

健全な発達例:西野亮廣*9

不健全な発達例:マイケル・ムーア*10

物事からさまざまな可能性を感じ取り、それを自らの美学で何かに結実することができる人。世界の紹介者ともいえる。人と人を無意識につなげる生まれながらにしての媒介者であり、多くの友人を持つリア充

健全な発達をした場合、その力は友人の力を借りることで社会全体を変革できるパワーの一つになるだろう。不健全な発達をした場合は、確かに言ってることはまともだが、現実性のないことをただ喚ているだけの困ったちゃんになる。つながりをどうリアリズムのあるパワーに変換していくかがカギ。

ENFJ

健全な発達例:デール・カーネギー

不健全な発達例:豊臣秀吉

人々の心のなかに眠るものを霊感的な話術で覚醒させる活動家。他者を勇気づけ、自らに好ましい行動を起こさせることのできるST族の敵。倫理観のバケモノ。反体制派で成功した人々のリーダー格には、必ずこいつがいる。

健全な発達をした場合は、人々を勇気づける活動家にもなる。世界市民主義的な人権思想家であり、やさしい世界を実現することができる。不健全な発達をした場合、周囲を感情で翻弄する独裁者となり、恐怖でもなんでも使うことのできるものを活用する恐ろしい人になる。自分の大事にしているものを見逃さないことが成功の鍵。

INTJ

健全な発達例:イーロン・マスク

不健全な発達例:カール・マルクス

霊感的に世界の行く先を見通せる人。その完璧な論理性はどこまでも「未来志向」に支えられており、全人類の幸福なる明日のために今日を犠牲にすることができる。そこまで行かなくても、どこか遠くを見通してる人はだいたいこれ。

健全な発達をした場合、人々を明るい未来にまで導くことのできる先駆者になる。不健全な発達をした場合、未来を見通せるのはいいが、どこか中途半端で多様な解釈をさせてしまうイマイチな人になってしまう。どこまでも実態的な確実性はあるかということを常に検証しつづけることがカギとなる。

INTP

健全な発達例:ビル・ゲイツ

不健全な発達例:ヴァン・ホーエンハイム(鋼の錬金術師)

自らの内面にある理屈を論理的、実証的に示そうとする人。演繹的で抽象的ではあるものの、その理屈は全世界的なものであり、多くの人々が真理に到達するための手助けになってくれる。

健全な発達をした場合、その理屈は実態的な物事と直結し、多くの富と交友関係をもたらしてくれる。不健全な発達をした場合、あまりにも理屈に殉ずるために(特に親しい)人々と対立し、一人で孤軍奮闘するハメになる。周囲の人々の心情をいかに掴むかがカギ。

ENTP

健全な発達例:スティーブ・ジョブズ

不健全な発達例:ヨブ・トリューニヒト

世界の多様な側面を垣間見ることのできる人。多弁的な巧みな弁舌で多くの人を魅了し、素晴らしい世界への手段を提供することができる。ベンチャー企業の社長や政治家に多い。

健全な発達をすれば、多くの人々に素晴らしい未来につながるツールや思想を提供することができるが、不健全な場合は多く人々を素晴らしい未来の美名のもとに地獄へと連行する最悪の人間になる。他者の心を理解することがカギ。

ENTJ

健全な発達例:ハリソン・フォード

不健全な発達例:ナポレオン・ボナパルト

世界を新しい次元にまで引き上げる指導者。外部的な準則を霊感的な直観をもとに分析して、確かな未来予想図を創れる人。彼らが確立した理論は、後の世界の基礎理論へと昇華されていく(ナポレオン以後の戦略理論、フォーディズム)。

健全な発達をすれば、その理論によって人々を適切に率いることのできる優れたリーダーとなり、不健全な発達の場合は晩節を汚しまくる生き意地の汚い人物となる。自らの強靭さは特殊であると自覚することがカギ。

健全な発達とは、飼いならされること

ここまで16性格類型ごとに、健全な発達の事例を見てきたが、いわば「社会のためになる発達こそが素晴らしい発達であり、幸福にもなれる」というのがMBTIの考える構造である。そのためには、ある程度のとがった部分を丸めて社会と上手く折り合いをつけることが大事になってくるわけである。

これはまさに権力の網の目に巻き取られることに他ならない。MBTIはあくまでアドラー心理学とならぶアメリカチックな自己啓発の学であり、参考にはすれどその枠に嵌ることはよろしくないことは確かであろう。

*1:この人が現実の人物でいちばん分かりやすいISTJであり、曲がりなりとも15年間無事に政権を運営しているので選択した。皮肉にも、移民受け入れあたりから、自らと異なる見解を持つ保守主義者を排除しつつはあるが……。

*2:まだ幼少のため未発達が正しい。彼も将来は小売業界という伝統的な手法が重視される界隈で着実に出世し、スーパージャイアンズなるスーパーチェーンを経営する経営者となっている。

*3:大統領としては新冷戦を勝ち抜き、パクス・アメリカーナをもたしたという素晴らしい面がある。しかし、あまりにも不用意な発言が多いことは指摘しておこう。

*4:彼女自身、ポップ・オブ・クイーンと呼ばれる芸術方面においては明確な成功者ではある。しかし老境に達するにあたって、あくまで「自分の美」に拘りすぎて、老醜をさらすことが増えたため、こちらに分類した。

*5:彼女自身は善人とはいえない。彼女はインドの瀕死の病人に適切な治療を受けさせず、宗教的な救済しか与えないのに、自らは高度医療を受けるなどINFJ特有の矛盾が多々見受けられる。しかし、カトリック教会と共謀しているイメージ戦略は素晴らしいので、健全な発達例とした。

*6:稀代の独裁者として扱われるが、自らの母を助けてくれたユダヤ人の医者は助けるなど情誼に厚い一面もある。

*7:ただし、私生活というものを一切送れていない。

*8:ピカソと同じく私生活がまったくできておらず、その問題がそのまま自分の仕事にまで影響したため、不健全な発達例に分類。

*9:彼のオンラインサロンの人は幸せそうなので、こちらに分類。ただ、詐欺師くさい。

*10:告発は真っ当ではあるが、社会を変革できるほどではないので、不健全な発達例に分類。

似ていない似た者同士

まとめを書いた理由

MBTIについて今まで学んだことのまとめをあげた。

 

dasun-2020.hatenablog.com

 

このまとめを書いた理由は今日のことを書きたかったからである。16性格類型論、実は心理機能にだけ縛られると、同じ心理機能を有している者同士のほうが似ているなどという誤解に陥る。実際はまったく異なり、同じ心理機能を有しているもの同士は理解こそは早かれ、その表れがあまりにも異なるので似てはいない。

例えば、ISTJとISFJ。ISTJは実直で勤勉な人間という印象を与えるが、ISFJはたおやかな社交家というイメージが相応しい。また、両者のSiの現れ方は何よりも慣れ親しんだ外部の準則と何よりも慣れ親しんだ周囲の状況というもので、両者が徹底的に対立することも多々ある。

今日は私が色んな人と関わっていくなかで、見つけた似た者同士について紹介していきたいと思う。ここでは、その理解を進める例として、各タイプのゾンビ・パンデミックにおける対応を例に挙げていきたいと思う。

ISTJとINTP(堅実家)

ISTJ(Si-Te-F-Ne)とINTP(Ti-Ne-S-Fe)は堅実な人間である。両者は活躍する場が役所などの実際的なフィールドと研究所などの学術的なフィールドと違いはあれど、実態的な秩序を望み、その維持のために穏健な手段を使用したがるという点でとても共通している。あと、話がくどくどしているお説教大好きコンビでもあり、ちょっと共感面が弱い。

両者はゾンビ・パンデミックにおいては、人間的な取り扱いに苦悩しながらも、冷徹に物事を対処しようとするであろう。ISTJは実際にゾンビに対処する兵士、INTPは抗体作成に全力を注ぐ研究者あたりであろうか。

INTJとISTP(一匹狼)

INTJ(Ni-Te-F-Se)とISTP(Ti-Se-N-Fe)は独立独歩である。周囲の助けを必要としない自立的な人物であり、秩序をあくまで手段としてしか見なしていない。説教はしないが、無能は徹底的に無視して精神的に追い詰めるタイプである。この両者の違いは、INTJの圧倒的な未来志向とISTPの現実志向であろう。ISTPにとっては格闘のできるありのままの今が大事なのであり、INTJの目は遥かな未来を見つめている。しかし、両者のストイックさは似ているのである。

ゾンビ・パンデミックにおいては、徹底的に冷酷な判断を下そうとする。だいたい周囲に異論を唱えられるが、その提言は「正しかった」と認められるだろう。INTJは「未来の人類存続のために」人体実験を率先して行ったり、感染地域の住民を見殺しにすることを提案する研究者、ISTPは感染者を盾にしたり、感染地域の無慈悲な感染者選別を行うことで、現地の非感染住民を守らんとする現場指揮官の参謀あたりだろうか。

ENTJとESTP(企業家)

ENTJ(Te-Ni-S-Fi)とESTP(Se-Ti-F-Ni)は粗暴である。「粗にして野だが卑ではない」というのは彼らに与えられるべき言葉である。相手の力量を常に見極めて限界にまで追いつめるが、その見返りをしっかり与えてくれるタイプである。両者の違いはその根拠である。ENTJは外部にある規則や技術を霊感的なセンスでもって一つの形あるものにしていく。それにたいして、ESTPはまず自身のデータベースに問い合わせて、そのなかにある相応しい対応策を決行する。

ゾンビ・パンデミックにおいては、徹底したリアリズムに立つ。TNTJやISTPあたりが提示する滅茶苦茶だが真っ当すぎる選択肢にたいして、現在の状況を冷静に判断する。ENTJは外部の準則、ESTPは今までの経験をもとに妥当な判断を下そうと全力を尽くすだろう。役柄としては、ENTJが製薬会社の社長、ESTPが現場指揮官あたりだろうか。

ESTJとENTP(実際家)

ESTJ(Te-Si-N-Fi)とENTP(Ne-Ti-F-Si)は即応力が高い。ESTJは役所の高位者に多く、ENTPはベンチャー企業の社長に多いために、似ていないと思われがちである。しかし、両者は現実的な判断を下すスピードが異様に早い。そして、指示がだいたい無茶なことばかりであるが、実効性がとても高い。それは両者が圧倒的に客観的だからである。両者の違いは発想の源泉である。ESTJは法令などの社会を構成する実態的な規則に、ENTPは最新理論などの可能性に置くために、喋っていることの構成は同じでも別のことを話しているように見える。

両者はゾンビ・パンデミックでは、国民感情を考慮した判断を下せるだろう。企業家―一匹狼チームが「非常事態」をいいことに、だいたい危険なことをしまくるので、連中を穏やかに窘める立場に立つ。ESTJ(役所の高位者)はピシャリと法令をもって、ENTP(財界のドン)は巧みな弁舌をもって現場にいる急進派を抑え込むだろう。

ISFJとINFP(心優しき人々)

ISFJ(Si-Fe-T-Ne)とINFP(Fi-Ne-S-Te)は心優しい。相手を思って相手のための行動を本心から取れる人たちである。しかし、そのためか、損な役回りをさせられることが多い。両者の違いはその優しさの現われか。ISFJは実態的な形として表れやすく、教師や介護士、看護師などをしている人が多い。INFPは雰囲気として表れることが多く、他人に見えづらいために苦労することも多い。

残念ながら、ゾンビ・パンデミックにおいては立場がない。必死に周囲の人々を守ろうとする一般市民であろうか。一方は愛する子どもや恋人のために涙を呑んで覚悟して、ゾンビに立ち向かっていき(ISFJ)、もう一方は言葉や行動で優しく勇気づけていくが、最期は単身で突撃できる勇敢さ(INFP)を備えている。

ISFPとINFJ(信念の人)

ISFP(Fi-Se-N-Ti)とINFJ(Ni-Fe-T-Se)は信念のある人である。その信念を率先して表明しないために、どこか自信なさげな不思議ちゃんと見なされることが多い。しかし、その奥には強い信念が眠っており、いざというときはそれに基づいた対応が取れるのである。両者の違いはその信念の根拠である。INFJは自身のなかにある霊感的な何かであり、ISFPは自身の価値観そのものである。

ゾンビ・パンデミックにおいては、最終的に軍や警察に対立して自己の信念に殉ずる殉教者である。INFJは宗教指導者(神父、シスター)として、ISTPの提案する冷酷な政策に翻意を示して抗議自殺を取ったりするし、ISFPは大人しい社員として、INTJの提案する人体実験に反対してその情報を横流しするあたりが相応しい。

ESFPとENFJ(活動家)

ESFP(Se-Fi-T-Ni)とENFJ(Fe-Ni-S-Te)は活動家である。自らの思ったことを行動しに表して、情熱的に活動しつづける。両者の違いはその活動の源泉と表現形態である。ESFPは何よりも自らの身体の疼きとでも呼ぶべきものであり、それを自身の美学として表現する。ENFJは周囲の精神状態であり、それを霊感的な何かと結びつけて、多くの聴衆を獲得する。

両者ともにゾンビ・パンデミックにおいては、体制側にも反体制側にも存在する。ESFPは女優として、過激な行動に反発したり、前線の兵士たちを鼓舞したりする。ENFJは活動家として、前線の兵士の精神的支えとなったり、反対デモを行ったりする。ISTPからすれば、どちらも戦略的な人間なので扱いづらい部類である。

ESFJとENFP(政治家)

ESFJ(Fe-Si-N-Ti)とENFP(Ne-Fi-T-Si)は政治的な人間である。ここでいう政治とは何も議会制民主的政体における政治ではなく、趣味人や町内会における人間関係にまで拡張される。義理人情、人々の繋がりのなかに生きている人々であり、温情的な措置や交友がとてもうまい。両者の違いはその現れ方である。ESFJは上下の秩序を重視しつつ、周囲の人間の機微をすかさず捉えて対応する。ENFPは多弁的な社交であり、社交を通じて自身のやりたいことを実現していく。

ゾンビ・パンデミックにおいては、やはり政治家だろう。両者ともに義理人情を重視しながら、前線の過激派や官僚組織の石頭たち、活動家連中を相手取って、自らの利益の最大化を目指して活動する。むしろのその利益追求のおかげで多くの人が救われることもあるのだ。ESFJは典型的な議会的民主的政体の政治家、ENFPはメディア関係者あたりが光るだろう。

あくまでも私見

この話はあくまでも私見である。第一、この話はISTPの私の印象論に過ぎないし、そもそもちゃんとした理屈は存在しないのである。だから、こんな戯言にイライラしないで「へえ、こんな見方があるか」程度に受け取ってもらえるとうれしい。

MBTIについてのまとめ

16性格類型

MBTI、広義的な意味ではユングのタイプ論から拡張された16性格類型は人間の性格を下記の4つの指標*1から分類する。

  1. 内向・外向指標(I・E、自分のエネルギーを外に向けるか、内に向けるか)
  2. 感覚・直観指標(S・N、具体的な事物中心か、想念中心か)
  3. 思考・感情指標(T・F、理性的に考えるか、情緒的に考えるか)
  4. 判断的態度・知覚的態度指標(J・P、ひとまず決めるか、ひとまず保留するか)

この指標の頭文字もしくは2文字以降の文字などを取って、ISTPやENFJなどのタイプが表現される。そして、この一連の文字は心のなかにおける心理機能(ユングのタイプ論に出てきたもの)の関連性を述べていることにもなる。

8心理機能

ユングは生まれながらにして、人間は感覚、直観、思考、感情の4つの心理機能を有していると考えていた。人間はこのうちの1つを取って、それを優先させて発達していき、その表れが個性というものになるとしている。そして、その主として発達する心理機能が自分の心のなかに向くか、外界に関心が向くかによって、同じ心理機能を有している人間でも現れ方が異なる。これによって、人間のタイプはおもに8つに分類できるのである。

内向感覚(Si)

自分の肌に馴染んだものを好む。具体的な物事の変化に敏感であり、機敏に反応することができる。

外向感覚(Se)

刺激的な出来事を楽しむ。目に見える物事をすぐさまキャッチして、行動をどんどん起こせずにはいられない。

内向直観(Ni)

自分たちの心のうちにある何かを感じ取る。預言的な行動を取ることができ、頭もすこぶるキレる。

外向直観(Ne)

外の物事に可能性を感じ取る。可能性を楽しみ、さまざまな創造的なあれこれを見出す。

内向思考(Ti)

自分の頭のなかに一貫とした理屈がある。物事を理路整然と理解し、その理解にともなった行動をする。

外向思考(Te)

外部の規則や準則にこだわる。社会的に望ましいふるまい等々を機敏に取ることができる。

内向感情(Fi)

自分の心にある良心や価値観に殉じる。献身的な行動や優しさにあふれた隠れた行動をすることができる。

外向感情(Fe)

周囲の情動に敏感。他者の反応にたいしてもっともな行動を取ることができる。

以上がユングの分類である。16性格類型はこの主機能*2以外の機能も順調に発達しつづけるという立場に立つ。

※すでに8タイプの文頭に示しているが、心理機能を大文字、内向・外向を小文字で表現することで省略することができる。

MBTIにおけるタイプ発達

MBTIにおいては、幼児期に主機能が選定された後は、思春期まで順調に主機能が発達するとしている。その後、青年期に入ると、その主機能を支える形で、主機能とは別の指標である機能が補助機能として発達を始める。主機能、補助機能の両者が十全に発達すると、タイプの枠に完全に安定した状態となり、むしろその枠が窮屈に感じるようになる(中年期の危機)。さまざまな人生経験を経て、この危機を脱すると、むしろ今まで軽視していた第3機能、劣等機能等が発達していくのである。下記に具体例をあげよう。

主機能が内向思考(Ti)

この場合、幼児期においてはTiを主に使うことになるため、その真逆の機能である外向感情(Fe)は意図して発達させない。そうしないと、強固な自己同一性を確立することが難しくなるのだ。ここの幼児期に置いて行かれたFeは後々、中年期の危機に爆発することになる。

内向思考の強みは一重に論理性である。外向型ではないため、学校では率先して騒ぎ出すタイプではないが、物事を鋭く分析することに定評がある子どもになる。親をどきりとさせることを平気で言いだす子(Niも同様である)といわれることもあるだろう。

補助機能をSにするか、Nにするか

思春期の終わり頃になると、今度は感覚を好むか、直観を好むかによって更に分裂する。そのとき、真逆の機能は捨てることになるため、この機能を伸ばすことが今後の課題になる。

補助機能は主機能を支えるための機能のため、必然的に外向の形を取ることになる。主機能が果たせない役割を代わりに果たしてくれるのがその役割のためである。内向タイプは思春期の終わりまでに外向のこと(つまり、交友や共感的な付き合い方)がとことん苦手である。それを代わりにやってもらうのだ。

補助機能に外向感覚(Se)を選んだ場合、思考が主人として心の内側に陣取っているため、補助機能である感覚は物事を採集して、接客等をこなすこととなる。そのときに、可能性や雰囲気ではなく、現実性や表情等を重視するとSeを選択することとなる。この結果、この人間は知覚指標(感覚・直観指標)が表に出るため、知覚的態度を選択することになり、ISTPに分類されることになる。

4文字を見れば、その人の心理機能の順番が分かる

つまり、4文字を見れば、その人の心理機能の順番が分かる。

例えば、ISTPの場合、

  1. まずIとPに注目する。Iで主機能が内向であることが分かる。
  2. Pを着目すると、主に外に出て働くのは感覚・直観指標の機能だということが分かる(この場合は感覚S)。
  3. その逆を取れば、思考が内向するということになり、主機能が内向思考(Ti)となる。
  4. 補助機能は外向感覚(Se)、第3機能は真逆の機能全体なので直観(N)、主機能の逆が劣等機能になるので外向感情(Fe)となる。

このような形でMBTIは明確な論理構造を有している。そして、この心理機能の構造を「主機能―補助機能―第3機能―劣等機能」の順番で記述する。ISTPの場合は、「Ti-Se-N-Fe」となる。

代償的な使用

面白いのは、人間が有している機能の外向と内向をうまくひっくり返したり、ある機能を使って真逆の機能をエミュレートすれば、さまざまな心理機能を代償的に用いることができる。

例えば、ISTPの場合、TiをFのように使う(つまり、情緒的に理性的な思考をする)とFiの機能を疑似的に用いることができる。Tiの内向・外向をひっくり返せば、Teのような良識的な思考も可能なのである。

このような心理機能の用い方をMBTIはタイプ発達の健全な形として奨励している。ここら辺がなんというか、如何にもたこにもアメリカンなプラグマテックな性格診断であると思う。

*1:この指標はあくまでMBTIのものである。ソシオニクスの分類は思考・感情指標を論理・倫理指標に、判断的態度・知覚的態度を合理・非合理指標に置き換える。

*2:これもあくまでMBTIにおける用語。例えば、ソシテオニクスにおいては、人間は根源的に8つの心理機能を有していると考えており、それに優先順位が付いているだけだとしている。

暴力に魅了される現代日本人

我らヴィクトリア朝の人間

私の敬愛するフーコー先生、その人生の中期における著作『性の歴史』において、人間が何かを禁止するということはその何かにたいして強い興味を示していることの証だと述べている。その範例として用いられるのが大英帝国ヴィクトリア朝における強い性の禁止規定と何もかもふしだらなものとみなす事例である。

とはいっても、この話、よほどのイギリスマニアか、シャーロック・ホームズ好きでもなにかぎり分かりづらい。確かに机の脚に女性の曲線美を見出して、ふしだらなものとしてみなしたという話は面白いが、日本人の実感としてすっと落ちるものではない。日本だったら、同様の理由であっても「寒くて可哀そうだから……」あたりがその理由に上がるだろう。今回はこのことについて、現代社会の実例をあげて話をしていきたいと思っている。

いじめは悪という風潮

実は、というか教育界にしばらく身を寄せいていた人の間では常識ではあるが、1980年代からいじめは社会的な問題として取り出され始めた。意外にも、その頃から継続して、いじめはが否定的なものと扱われていた。例えば、いじめ問題のさきがけである「中野富士見中学いじめ自殺事件」においては、一連のいじめのなかでも象徴的な事象である「葬式ごっこ」を取り上げて、加害者たちの残忍な人格性をあげつらった批判や管理教育そのものにたいする否定が激しくなされた。これ以降、いじめが発生するたびにヒステリックに学校教育の在り方、加害者児童の加害性を徹底的に攻撃するといういじめ報道・評論の形が一般化した。

この話の面白い点は、いじめにたいする社会的反応そのものがいじめの縮図である点である。内藤先生のいじめの構図において、いじめとは加害者vs被害者という二項対立のものではなく、両者はいじめを率先して「観戦」する観衆と「無視」する傍観者に包含される形となる。今、読んでいるアガンベン先生の『事物のしるし』のパラダイム構造と同じ形となっている。加害者と被害者という二項対立的な観念は、範例を指し示すことで、両者を往き来する両極的な構造へと変化する。

いじめ批判も同様である。社会の観衆たちが「加害者」を上げつられるとき、加害者は被害者の地位に転落する。学校教育批判においては、教師と教育委員会が同様の扱われ方をし、橋下徹安倍晋三などの政治家たちは加害者として学校教育に不可逆的な傷を残すこととなる。

また、このいじめの構造を日本社会特有のものとみなすことは、まさしくヴィクトリア朝の「机の脚は卑猥だ」という話の日本版であろう。このような構造はジラールが分析した供儀の構造と一致しており、一人の人間、事物を生贄とすることで暴力の抑制を目指したものである。ソビエトの収容所列島、中国の文化大革命アメリカのポリコレ運動など類似例は枚挙にいとまがない。

私たちは暴力に興味がある

いじめを範例として取り上げたが、私がこの話で言いたいのは現代日本社会において何よりも禁止されているものは「暴力」ということである。その禁止は1980年代に表出し、世界においても珍しいレベルに秩序の取れた社会が構成された。しかし、その毒はゆるやかに日本社会を駆け巡り、人々は暴力に蠱惑的なものを感じるようになった。

その結果が現代社会の「諸問題」とされるブラック企業、ハラスメントという事象である。暴力は巧妙に非暴力に偽装され、暴力を振るう者は暴力を振るわない者によってリンチを受けることになる。ヴィクトリア朝の性規範と同様に、現代日本においては暴力規範と呼ぶべき何かに支配されているのだ。

「生きさせろ」は甘い

「生きさせろ」は甘い

私は現在の山本太郎氏をなかなか見所のある政治家として評価している。確固たる財政論及びそこから展開される政策の数々は安倍政権なんかよりも遥かに優れていると断言できる。

しかし、どこか甘い。以前、甘ったる言葉にこそ差別の真相が隠されているという話をしたが、山本太郎氏も同様の罠にかかっている。

確かに、辺野古移転や原発依存は長期的に解消していく必要がある問題である。しかし、実態として、日本は対米依存なくしては存立できないのであり、解消を目指すのは短期的、個別的な課題ではなく、戦後をした甘えた日本社会全体の考え方なのだ。

この甘さが端的に出ている言葉がある。「生きさせろ」である。確かに、現状として社会から切り離されている人々からすれば、これほど蠱惑的な言葉はないが、そもそも人間は何をしなくても勝手に「生きている」。その生き方の質が現代の行政には問われているのである。必然的に世界規模の階級対立にまで話は広がる。言うなれば、私が言いたいのは「生きさせろ」ではなく、「食わせろ。さもなくば、殺すぞ」である。

体面に囚われる大人たち

これは日本の働き方にも通底する話である。私の友人に児童養護施設に働く人がいるが、彼は今、クレーム対応から事務まで一人で押し付けられて、よくうつ状態に陥っている。

私はそんな友人を心配して、「さっさとバックレろ」とか言うが、「子どもたちが」や「実家や自宅がバレている」などと言ってなかなか辞めることがない。退職届を持っていったら、社長はタイ旅行に行っていたそうだ……。

友人にたいして、あえて厳しい言葉を掛けるようだが、そんな奴に義理を立てる必要はあるのか。自分の職務に応じない給与を貰ってるならば、こっちから願い下げにしてやればいい。結局、ここで守りたいのは次の就職先にたいしていい顔をしていたいという「体面」である。

その体面の裏には、奴隷的な労働環境やそれで利得を得ている連中がいる。私は役人としてそういう奴らに補助金が回るのはとても許せないし、そういうコンサルがいるのも知っている。山本太郎氏よ、あなたの敵は自民党ではなく、そういう連中ではなかろうか。あなたは突撃隊を構成して、暴力でそういう奴らを殴って金を巻き上げる務めがある。

所有権という制度

ここまで私が暴力的なのは所有権という思想を本質的に認めていないからである。近代社会は所有権を認めてきており、他人の労働を奪って利得を得ている連中は常々、所有権を盾に利得を保護してきた。

新自由主義者たちの間では、どうやら生まれながらに土地や財産を所有しているという根源的所有権なる思想が主流のようである。しかし、そんなものは書面の上にしか存在せず、書面を焼き捨てたり、勝手に住み着けば所有権など無効化する。それでは社会が持たないので、仕方なく所有権という制度を認めているに過ぎない。

もし、所有権が存在するのであれば、人間の肉とその発現たる暴力のみであり、これにのみ立脚する制度こそが真に根源的なものである。そして、それ以外の制度に依拠するものを所有している人々は、それにたいする敬意を持ち、尊重しなければ、どこかで誰かを殺しつづける実態は変わりようがない。

自分の腕で守れる者は少ない

しかし、自らの腕で守りきれるものはとても少ない。せめて守れるのは、自分の肉と家族くらいである。だからこそ、人間は制度という道具を利用して、自らの周辺を守るのである。これこそが村落、宗教、そして国家の根源である。そこにおいて副次的に生じえたのが所有権なる概念であり、自由主義なる思潮である。

ファシズムならざるファッショ

暴力を全面的に肯定し、肯定するがゆえに国家による団結を重視する。これはまさにファシズムである。しかしながら、ファシズムが重視する「血と土」や「指導者原理」などの甘ったるい幻想は捨て去り、目の前にいる、日本列島にいる民衆による団結を重視する。これこそが私が山本太郎氏に求めるファシズムである。いわば、ファシズムならざるファッショだろうか。

高校時代がつまらなかった話

高校ボッチだった自分

私は高校時代、友だちが一人もいなかった。周囲から見れば、話をする友人や仲のいい後輩なんかがいたように見えるが、実際には彼らとは趣味が合わなかった。止む仕方なく一緒にいただけなのである。

私が高校ボッチ生活から感じたことについて、つらつらと述べていきたいと思う。

集団生活が大丈夫な人はエンジョイできる

第一に、高校とは精神が完全に熟した大人が強制的に集団生活を送ることを義務付けられる場所である。まだ、頭のなかがひよっこの小学生、中学生ならともかく経験こそ浅いものの大人顔負けの判断力を持つ個人が3年間も不条理だらけの集団生活を送るのだ。

逆にいえば、集団生活をエンジョイできる人=社会の大多数は高校生活を楽しむことができる。高校には、頭のレベルや経済程度に合わせて、人を振り分ける機能もあるから、いわばこれからの社会人生活を測るバロメーターにもなるのだ。高校生活を無難にサヴァイブできる人は社会人でもやっていける。しかし、社会人生活に馴染めることはないだろう。

不条理に耐える力がつく

高校とは、訳のわからないルールばかりが存在する。小学生や中学生などの判断能力のないガキからまだ分かるが、物事の分別がある大人を小中学生仕様に縛り付けるのが高校なのである。

逆に言えば、社会のよく分からないルールに「まあ、いいか」と従える力が身に付く場でもある。「受験は団体戦」、「突然怒りだす教師」、「パワハラじみた親愛表現」や「よく分からない内輪ノリ」などにそれとなくこなすことができれば、社会人になってもやっていけるのだ。

趣味?部活?第一に勉強だ

案外、軽視されやすいのが勉強である。ブルデューも言ったように、残念ながら学校は階級の分化を促す装置にすぎない。大金持ちのように金で学歴でも何でも買えるなら、高校を遊んでもいいが、私たち庶民の持てる武器は何よりも「勉学」のみである。また、私も含めて受験勉強を頑張れなかった人で、その知的程度に合った人生を送れているのを見たことがない(自分や父母も含めて)。没落したくないのなら、死ぬ気で勉強しよう。

また、体育会系なるいけすかない連中の馬力も舐めてはいけない。スロースターターでゆっくり努力しても、3ヶ月程度で抜かされてしまう。油断せず、ガリ勉と言われてもいいから勉強しよう。そしたら、嫌いなアイツよりも生涯収入は高くなる。

類は友を呼ばない(ただし、高校にかぎる)

類は友を呼ぶという言葉がある。似た者同士なら惹かれあって仲良くなるという意味だ。残念ながら高校にそんなものはありはしない。

高校とは学力的に均質化された序列によって構成されている。つまり、個性はバラけている。100人に1人、同じ性格がいたとしても一学年に3人、全校でも9人しかいないだろう。その上、服装や言動も過度に相互監視に置かれているから、余計に個性が際立たない。結局、そういう人間は一人でつまらない監獄に閉じ込められるのだ。

※別にこの監視は教師による上からのものだけではない。シュナムルなどのパヨク連中は相互監視といえば、上からのものと決めつける傾向にあるが、実際の相互監視は仲良しグループ内のルールを守れるかどうかのもののほうが大きい。特に女性はそれが強い(相関的にバカが多い)から、非常に生きづらいと思っ。

大人しく周囲の人間とつまらない付き合いをしておけ。そしたら、そこそこの内申点を無難に獲得できる。

高校とは企業社会の教習所である

うねうねと長文を連ねてきたが、言ってしまえばこういうことである。高校という選別装置を通して、企業社会で暮らしていける人間を選別しているに過ぎないのである。そして、合わなかったら、本人の気合いで上昇するか、引っ掛かるまで転落するのをもって安住の地を得るしかないのである。高校生活で脱落したものは地獄のような復帰過程か、クソみたいな人生のどちらかを送るしかあるまい。

私は死ぬほど自分の母校が嫌いだったが、大して勉強もしなかった。その結果、第一志望の地方帝国大学には落ちて、教員養成系の地方国公立大学に入った。しかし、それで良かったのである。そこで学校を批判的に検討する面白さに気づいた自分はそれで卒論を書くくらいになるのだから。

例外はどこにでもいる

最後に、例外はどこにでもいるということを話しておこう。端から高校生活をエンジョイしているように見える奴でも、ずば抜けて頭のキレるやつはいるという話である。

高校2年生の頃、相も変わらずつまらない高校生活を送っていた私は帰宅していた。そうすると、後ろから見慣れた奴が声を掛けてきたのである。彼は高校のサッカー部のエースで、女子にはモテ、勉強も見るだけで覚えることのできる質だった。

「どうしたの急に?」と声を掛けると、「お前、面白いんだよな」と言われた。意味を問うてみると、「この学校の連中も生活もつまらない」という回答が帰ってきた。私は驚いた。はた目からはたくさんの友人に囲まれている彼がそんなことを不満に持っていたのだ。

今、大人になって思い返せば、理由は簡潔である。彼は高校生活に適応できないレベルにまで成熟していたのである。これは「勉強ができる」という意味ではない。勉強ができてもクソほどつまらない大人もガキもたくさんいる。彼にとって、高校という箱は大きすぎたのだ。似たようなものを感じ取った(というよりも、隠していなかった)私に声をかけたというわけだ。

最後に言いたいことは人を見かけで評価してはいけないという当たり前の話だ。その人間が端から見たら、高校生活をエンジョイできていないように見えても実はエンジョイしているかもしれないし、逆もありうるということだ。

現人神の認定者―出雲国造神賀詞から読み解く―

今日、上野にある国立博物館で開催中の『出雲と大和』という企画展に行ってきた。この企画展は日本書紀が編纂1,300年を迎えたことに開催されたもので、日本書紀の正史的な神話観に寄ったものではなく、信仰と政治の関係を考古学的見地から分析する実に中立的なものであった。

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中立的であること、つまりは毒にも薬にもならない教科書的な記述であるということになるので、本企画展にたいしては何も感想はない。私みたいな古代史ヲタクから一般人にも楽しめるないようなので、関東圏の読者は是非とも足を運んでほしい。

相似する『国譲り神話』

以前、諏訪を巡ったときに書いたブログにて、建御名方神の来諏神話と出雲の国譲り神話が似ていることを書いた。そこにおいて、その両者が相似している原因について下記のように分析した。

私は『国譲り神話』の原型が諏訪にあると考える。諏訪における一連の武力抗争の逸話をそのまま出雲に塗り替えることで、出雲の服従の過程で起きたことを塗りつぶしたのだ。

この推測自体は合っていると思うのだが、その服従の過程で起きたことを勝手に出雲と諏訪では異なると思い込んでいた。具体的には、吉備のような徹底とした抗戦とその後の粛清を予測していた。しかし、実際には、出雲族は実に賢かったのである。

諏訪の神長官と出雲国造

また、この記事において諏訪大社上社の神長官守矢氏(元々の諏訪湖南岸の支配者)の生存戦略について述べている。

一方、最後まで抵抗したのが漏矢(モレヤ)神として伝わる守矢氏の祖先であり、屈辱的な大敗を喫した後、自らの猟場である八ヶ岳と祖先崇拝の山である守矢山を建御名方神(おそらく出雲族の一氏族であるミナカタ氏の氏神、意味としては猛きミナカタ)に譲り渡している。以後、漏矢神の一族(守矢家)は神長官として、国政の補助役となり、祭祀の実権を握るのである。

彼らは顕世の実権を捨てることで、幽世の実権(祭祀権)を獲得したのである。実はこれの全日本版とでも言うべきことを、出雲氏は行っている。

天穂日命大穴牟遅神

日本書紀古事記において、彼らは天穂日命の子孫とされ、大穴牟遅神に絆され、出雲に定住した一族として伝わっている。しかし、彼らが交代時に天皇にたいして、読み上げる『出雲国造神賀詞(以下、神賀詞)』においては異なる。

「高天の神王高御魂の命の、皇御孫の命に天の下大八島国を事避さしまつりし時に、出雲の臣等が遠つ祖天の穂比の命を、国体見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて返事申したまはく、『豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿なす水沸き、夜は火瓮なす光く神あり、石ね・木立・青水沫も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめむ』と申して、己命の児天の夷鳥の命に布都怒志の命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八島国の現つ事・顕し事事避さしめき。

彼らの祖先神こそが「布都怒志の命(経津主神)」を引き連れて、天下を平定し、国譲りの準備をしたとされている。

しかし、この話は妙に大穴牟遅神の初期の話と符合している。大穴牟遅神須勢理毘売命を獲得するなかで出雲の支配神、須佐之男命を鎮められ、彼から頂いた武具を持って、悪い兄弟神である八十神を悉くうち伏せて国土を平定したのである。

つまり、天穂日命とは出雲が大和に服従していくなかで、出雲族に与えられた新しい氏神であり、彼らの真の氏神大穴牟遅神ではないか。

現人神の認定者

そのように解釈しなおすと、この神賀詞の意味も変わってくる。諏訪において、神長官守矢氏とは祭祀の実権を握る一族であり、大祝諏訪氏の「神秘性」と「正統性」を担保する存在であった。同様の記述が神賀詞にもみられる。

乃ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さむ大倭國と申して己命の和魂を八咫鏡に取り託けて倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐せ、己命の御子、阿遅須伎高孫根の命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築宮に静まり坐しき。

大和の大王こそが、この日本を支配する者であり、元支配者である大穴牟遅神の和魂と親族神を守護のために配置するという内容である。

これを単なる出雲大社の祭司による守護の約束と捉えてしまうが、彼が前の日本の支配者であり、その子孫がこの言葉を述べると意味合いが変わってくる。謂わば、大穴牟遅神が現人神天皇を言祝ぐことによって「のみ」、日本統治の正統性が認められるのであり、その証として三輪山の地に自らの和魂を配したということになる。

この三輪山というのも肝である。三輪山周辺は「卑弥呼邪馬台国」の比定地であり、大和王権の発祥の地でもある。また、播磨国風土記においては、天香久山畝傍山耳成山大和三山がそれぞれの優位性を主張したときに、出雲のアボの大神が取りなしたという話が残っている。

この大和三山、それぞれに磐座が存在しており、古代の豪族たちの氏神が祀られていた山の可能性がある。この山を取りなしたアボの大神とは、元々は三輪山の神であった可能性が高い。つまり、そのような大和においては最高位にあった山を出雲氏は自らの神がまします山として塗り替えたのである。

いくら大和の大王家がその至高性を主張しても、その至高性を認定するのは"油注ぎ"たる出雲氏というわけだったのである。

出雲氏の地位から見え透ける国譲り

このような地位にあるということは、大和王権というのは本来、出雲―大和連合であった可能性が高い。日本海側の交易路を独占する出雲と瀬戸内の交易路を独占する大和、この両者が手を取り合ってできたのが大和王権というわけだ。

しかし、それでは分裂の可能性があったので、両者は丁重に神話を擦り合わせて、顕世を支配する大和と幽世を支配する出雲という構図を造り上げた。この構図には、以前から出雲交易圏に食われてきた諏訪地方における諏訪氏と諏訪土着勢力(守矢、金刺氏)の関係が参考にされたかもしれない。(他にも肥や筑紫、吉備、尾張、毛という巨大勢力があったが悉く滅ぼされるか、同化されたのとは対照的である。)

※諏訪地方は更に二重の支配を受けたことにより、出雲につく守矢氏(上社)と大和についた金刺氏(下社)という構図が激化して、中世に金刺氏は滅ぼされることになる。

幽世の黄昏―仏教と国家神道

皮肉にもこの構図を破壊したのは仏教であった。日本に伝わった仏教は単純明快であり、顕―幽という二重構造によって維持する必要はなくなった。この仏教が浸透していくにあたって、どんどん出雲のパワーは弱体化し、最後には出雲一国だけのものとなってしまった。

更に神道の仏教化(神仏習合)が進むのにあたって、どんどん幽世は零落していき、その地位には密教が君臨することになった。しかし、そのなかでも出雲は特殊な地位を守りつづけることができた。

最終的な破壊者は、国家神道であった。国家神道の目的は神道キリスト教化。天皇が現人神であることは自明の理であり、むしろ"油注ぎ"たる出雲氏天皇神格化の邪魔となってしまった。そのため、出雲大社伊勢神宮を中心とする国家神道の序列にはいることができず、天理教などとならぶ単なる俗説として一教派神道として扱われることになるのである。

 

注:出雲国造神賀詞は下記ページから引用した。

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