日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

高校時代がつまらなかった話

高校ボッチだった自分

私は高校時代、友だちが一人もいなかった。周囲から見れば、話をする友人や仲のいい後輩なんかがいたように見えるが、実際には彼らとは趣味が合わなかった。止む仕方なく一緒にいただけなのである。

私が高校ボッチ生活から感じたことについて、つらつらと述べていきたいと思う。

集団生活が大丈夫な人はエンジョイできる

第一に、高校とは精神が完全に熟した大人が強制的に集団生活を送ることを義務付けられる場所である。まだ、頭のなかがひよっこの小学生、中学生ならともかく経験こそ浅いものの大人顔負けの判断力を持つ個人が3年間も不条理だらけの集団生活を送るのだ。

逆にいえば、集団生活をエンジョイできる人=社会の大多数は高校生活を楽しむことができる。高校には、頭のレベルや経済程度に合わせて、人を振り分ける機能もあるから、いわばこれからの社会人生活を測るバロメーターにもなるのだ。高校生活を無難にサヴァイブできる人は社会人でもやっていける。しかし、社会人生活に馴染めることはないだろう。

不条理に耐える力がつく

高校とは、訳のわからないルールばかりが存在する。小学生や中学生などの判断能力のないガキからまだ分かるが、物事の分別がある大人を小中学生仕様に縛り付けるのが高校なのである。

逆に言えば、社会のよく分からないルールに「まあ、いいか」と従える力が身に付く場でもある。「受験は団体戦」、「突然怒りだす教師」、「パワハラじみた親愛表現」や「よく分からない内輪ノリ」などにそれとなくこなすことができれば、社会人になってもやっていけるのだ。

趣味?部活?第一に勉強だ

案外、軽視されやすいのが勉強である。ブルデューも言ったように、残念ながら学校は階級の分化を促す装置にすぎない。大金持ちのように金で学歴でも何でも買えるなら、高校を遊んでもいいが、私たち庶民の持てる武器は何よりも「勉学」のみである。また、私も含めて受験勉強を頑張れなかった人で、その知的程度に合った人生を送れているのを見たことがない(自分や父母も含めて)。没落したくないのなら、死ぬ気で勉強しよう。

また、体育会系なるいけすかない連中の馬力も舐めてはいけない。スロースターターでゆっくり努力しても、3ヶ月程度で抜かされてしまう。油断せず、ガリ勉と言われてもいいから勉強しよう。そしたら、嫌いなアイツよりも生涯収入は高くなる。

類は友を呼ばない(ただし、高校にかぎる)

類は友を呼ぶという言葉がある。似た者同士なら惹かれあって仲良くなるという意味だ。残念ながら高校にそんなものはありはしない。

高校とは学力的に均質化された序列によって構成されている。つまり、個性はバラけている。100人に1人、同じ性格がいたとしても一学年に3人、全校でも9人しかいないだろう。その上、服装や言動も過度に相互監視に置かれているから、余計に個性が際立たない。結局、そういう人間は一人でつまらない監獄に閉じ込められるのだ。

※別にこの監視は教師による上からのものだけではない。シュナムルなどのパヨク連中は相互監視といえば、上からのものと決めつける傾向にあるが、実際の相互監視は仲良しグループ内のルールを守れるかどうかのもののほうが大きい。特に女性はそれが強い(相関的にバカが多い)から、非常に生きづらいと思っ。

大人しく周囲の人間とつまらない付き合いをしておけ。そしたら、そこそこの内申点を無難に獲得できる。

高校とは企業社会の教習所である

うねうねと長文を連ねてきたが、言ってしまえばこういうことである。高校という選別装置を通して、企業社会で暮らしていける人間を選別しているに過ぎないのである。そして、合わなかったら、本人の気合いで上昇するか、引っ掛かるまで転落するのをもって安住の地を得るしかないのである。高校生活で脱落したものは地獄のような復帰過程か、クソみたいな人生のどちらかを送るしかあるまい。

私は死ぬほど自分の母校が嫌いだったが、大して勉強もしなかった。その結果、第一志望の地方帝国大学には落ちて、教員養成系の地方国公立大学に入った。しかし、それで良かったのである。そこで学校を批判的に検討する面白さに気づいた自分はそれで卒論を書くくらいになるのだから。

例外はどこにでもいる

最後に、例外はどこにでもいるということを話しておこう。端から高校生活をエンジョイしているように見える奴でも、ずば抜けて頭のキレるやつはいるという話である。

高校2年生の頃、相も変わらずつまらない高校生活を送っていた私は帰宅していた。そうすると、後ろから見慣れた奴が声を掛けてきたのである。彼は高校のサッカー部のエースで、女子にはモテ、勉強も見るだけで覚えることのできる質だった。

「どうしたの急に?」と声を掛けると、「お前、面白いんだよな」と言われた。意味を問うてみると、「この学校の連中も生活もつまらない」という回答が帰ってきた。私は驚いた。はた目からはたくさんの友人に囲まれている彼がそんなことを不満に持っていたのだ。

今、大人になって思い返せば、理由は簡潔である。彼は高校生活に適応できないレベルにまで成熟していたのである。これは「勉強ができる」という意味ではない。勉強ができてもクソほどつまらない大人もガキもたくさんいる。彼にとって、高校という箱は大きすぎたのだ。似たようなものを感じ取った(というよりも、隠していなかった)私に声をかけたというわけだ。

最後に言いたいことは人を見かけで評価してはいけないという当たり前の話だ。その人間が端から見たら、高校生活をエンジョイできていないように見えても実はエンジョイしているかもしれないし、逆もありうるということだ。