日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

暴力に魅了される現代日本人

我らヴィクトリア朝の人間

私の敬愛するフーコー先生、その人生の中期における著作『性の歴史』において、人間が何かを禁止するということはその何かにたいして強い興味を示していることの証だと述べている。その範例として用いられるのが大英帝国ヴィクトリア朝における強い性の禁止規定と何もかもふしだらなものとみなす事例である。

とはいっても、この話、よほどのイギリスマニアか、シャーロック・ホームズ好きでもなにかぎり分かりづらい。確かに机の脚に女性の曲線美を見出して、ふしだらなものとしてみなしたという話は面白いが、日本人の実感としてすっと落ちるものではない。日本だったら、同様の理由であっても「寒くて可哀そうだから……」あたりがその理由に上がるだろう。今回はこのことについて、現代社会の実例をあげて話をしていきたいと思っている。

いじめは悪という風潮

実は、というか教育界にしばらく身を寄せいていた人の間では常識ではあるが、1980年代からいじめは社会的な問題として取り出され始めた。意外にも、その頃から継続して、いじめはが否定的なものと扱われていた。例えば、いじめ問題のさきがけである「中野富士見中学いじめ自殺事件」においては、一連のいじめのなかでも象徴的な事象である「葬式ごっこ」を取り上げて、加害者たちの残忍な人格性をあげつらった批判や管理教育そのものにたいする否定が激しくなされた。これ以降、いじめが発生するたびにヒステリックに学校教育の在り方、加害者児童の加害性を徹底的に攻撃するといういじめ報道・評論の形が一般化した。

この話の面白い点は、いじめにたいする社会的反応そのものがいじめの縮図である点である。内藤先生のいじめの構図において、いじめとは加害者vs被害者という二項対立のものではなく、両者はいじめを率先して「観戦」する観衆と「無視」する傍観者に包含される形となる。今、読んでいるアガンベン先生の『事物のしるし』のパラダイム構造と同じ形となっている。加害者と被害者という二項対立的な観念は、範例を指し示すことで、両者を往き来する両極的な構造へと変化する。

いじめ批判も同様である。社会の観衆たちが「加害者」を上げつられるとき、加害者は被害者の地位に転落する。学校教育批判においては、教師と教育委員会が同様の扱われ方をし、橋下徹安倍晋三などの政治家たちは加害者として学校教育に不可逆的な傷を残すこととなる。

また、このいじめの構造を日本社会特有のものとみなすことは、まさしくヴィクトリア朝の「机の脚は卑猥だ」という話の日本版であろう。このような構造はジラールが分析した供儀の構造と一致しており、一人の人間、事物を生贄とすることで暴力の抑制を目指したものである。ソビエトの収容所列島、中国の文化大革命アメリカのポリコレ運動など類似例は枚挙にいとまがない。

私たちは暴力に興味がある

いじめを範例として取り上げたが、私がこの話で言いたいのは現代日本社会において何よりも禁止されているものは「暴力」ということである。その禁止は1980年代に表出し、世界においても珍しいレベルに秩序の取れた社会が構成された。しかし、その毒はゆるやかに日本社会を駆け巡り、人々は暴力に蠱惑的なものを感じるようになった。

その結果が現代社会の「諸問題」とされるブラック企業、ハラスメントという事象である。暴力は巧妙に非暴力に偽装され、暴力を振るう者は暴力を振るわない者によってリンチを受けることになる。ヴィクトリア朝の性規範と同様に、現代日本においては暴力規範と呼ぶべき何かに支配されているのだ。