日々凶日

世の中を疎んでいる人間が世迷言を吐きつづけるブログです

自然に気圧された街

視点の変化

あの大きい田舎町めいた、道幅の広い、物静かな、木立の多い、洋風まがひの家屋うちの離れ/″\に列んだ――そして※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)どんな大きい建物も見涯みはてのつかぬ大空に圧しつけられてゐる様な、石狩平原の中央ただなかの都の光景ありさは、やゝもすると私の目に浮んで来て、優しい伯母かなんぞの様に心を牽引ひきつける

https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/45463_31732.html(『札幌』、石川啄木、2020年8月13日アクセス)

 久々に故郷に帰ってきている。私の故地、札幌はその大柄な雰囲気を感じさせぬほどに、新型コロナに怯えきっており、私はしばらくの軟禁生活を余儀なくされた。

 今日、珍しく外に出た。外に出た感じたのは、自分の視点の変化であった。

 あんなに大きく雄大であった建物は、小さく矮小なものに映り、代わりに周囲を覆うのはどこまでもつづく―余白―である。言い方を変えれば、視野の8割は青空と地上に覆われ、建物はその隅っこにちょこんと存在している。

 その瞬間、私は「半分、東京の人間になってしまったんだな」と思ってしまった。

すべてが人工物に覆われた都市、東京


帝国少女/R Sound Design feat.初音ミク-Imperial Girl

もう遣る瀬無い浮かぬ日々も 
揺れる摩天楼に抱かれて 
ビルにまみえる夜空の星に願いを込める 
こんな夜に

https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/36085.html(『帝国少女』、R Sound Design 、2020年8月13日アクセス)

 東京という街に自然はない。グリーンガーデンや公園は存在するが、それは武蔵野の自然の文脈に築かれたものではなく、ただただ人間の必要から移植されたものに過ぎない。私の居住しているところの視野が占めているのは、灰色の道路、建物、そして狭い青空である。

 しかし、しかし、哀しいことにそれに親しみを覚えはじめている。私は生まれてから20数年、札幌に住み続け、その景色を愛し、そこに殉じるつもりだった。私の肉体は賃労働の代償として、東京に売りつけるつもりだったが、どうやら私はその魂まで売りつけかけているらしい。

根無し草と化していく哀しみ

 私はおそらく根無し草(デラシネ)と化しつつある。私を構成していたものは徐々に剥がれ落ち、その代わりに何か私ではないものが浸食していく。カミュの異邦人よろしく、私はいつか「太陽が眩しかったから」で人を殺すようになるのかもしれない。

「異邦」としての東京

謳われる東京

 1990年代以降、あの日本を破壊したテレビでは「東京」の歌が盛んに謳われた。テレビこそが第二の故郷であり、文化的素地であった僕らにとって東京とはまさしく「憧憬」そのものとなっている。


幽霊東京 / Ayase (self cover)

 人も物も文化も何もかも日本中のものが集まり、多くの人の「憧憬」と「憎悪」になっている東京。たしかに、それは東京の一側面なのかもしれない。東京には日本最大の繁華街がいくつもあり、芸人、芸能人、アイドルなんでも揃っており、すべてがキラキラしている。それは覆しないようもない現実なのである。

東京には何でもある?

金がなくても遊べる街というのはある程度文化の厚みがあり、パッケージプラン以外の遊び方が出来る場所ということで、これはやはり東京に勝る場所はない。

https://togetter.com/li/1455871(借金玉の人生語り(東京Kiss&Explosion)、2020年8月1日アクセス)

 上記は有名なネット論客、借金玉氏の東京評である。この論評もなかなか秀逸なものではある。彼*1のような根無し草からすれば、文化的なものがあって何でもある街である。確かに、東京にはインドカレー屋があり、高級な酒屋さんがあり、新美があり、現美がある。たった1時間の移動だけでありとあらゆる産物を入手することができる。東京の素晴らしさとはそういうインスタントさにあると言っても過言ではない。

偽物だらけの街、東京

行ってやる事と言えば、結局買い物(windiw shopping)

観光スポット行って結局買い物って・・・

なんか面白くないですよね。。

https://www.riche-handmade.com/entry/tokyotumaranai#%EF%BC%91%E5%9B%9E%E8%A1%8C%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%89%E3%82%82%E3%81%86%E9%A3%BD%E3%81%8D%E3%82%8B(【東京はつまらない】実は行く場所がない!オススメスポット行ってもつまらない!、2020年8月1日アクセス)

 しかし、そのような便利さに浴するたびに思ってしまう。こんなものは「本物」なのか。残念ながら、私は消費するだけでは満足できない人間なのである。東京は確かにモノに溢れている、人に溢れている、コトに溢れている。しかし、語弊を恐れずに言うなら、そこに「本物」は一個もないのである。すべてはどこから持ってきた「偽物」なのである*2

 元々、存在していた山を削り、強制的に平地を造り、その上にどこからか持ってきた鉄を使って摩天楼を造る。その営みで出来上がった被造物はまさに人間の営為そのものである。そこに運び込まれたモノも実に人間的な技巧に溢れた素晴らしいものである。それは認める。しかし、そのどれも土地に息づいていないのである。

「本物」を有する地方都市

あと、陽が暮れてからモールの中に出没する流しのバンドマンや、似顔絵やハンドメイドの品物を売っている人や、自転車に外国の自動車のナンバーをつけて疾走している外国人(札幌というか、狸小路周辺にはこういうのが多い)を見かけると、気分が落ち着いてきて『ああ、戻ってきたなあ』と思うことがあります。

https://ydet.hatenablog.com/entry/2014/09/10/175831(心の故郷1:北海道札幌市、2020年8月1日アクセス)

  それにたいして、如何なる事物でもその土地に息づいているのが地方都市である。東京と地方都市、両者は「都市」であるから、本来、二項対立として処理されるのは「地方」である。しかし、この都市以上地方未満の地方都市と東京を比べることにこそ、意味があるのだ。

 例えば、札幌。私の生まれ故郷である。クソ玉からすれば、「何もない街」だったらしい。しかし、私から評すれば何もないがすべてが必要に溢れている都市である。道路の警告灯やどこまでも続く直線の道路、駅前のちょろっとした飲み屋街、そのすべてがその土地に息づていており、人間の必要性から立ち現れている。不要がなく、すべてに役割が振られた美しい街である。

 また、ジンキスカン、讃岐うどん熊本ラーメン、鹽竈ホルモンなどの地の物もこの手の話には欠かせない。上記の名物は私が旅行や地元に帰ったときに食してたものだが、そのすべてがその都市の地理的特性に紐づいて存在している。例えば、讃岐うどんは讃岐三白(米、綿、砂糖)という江戸時代の名産といりこだしという瀬戸内のだし文化が交差することで生まれたものである。あのだしの風味と温暖な気候から採れる野菜の冷めた天ぷら、そしてしこしこの麺。あの一杯にあの地の抱える歴史的文脈があふれている*3。ただ食事をするという行為にさえ、文脈が伴ってくるのが地方都市の生活なのである。

何でもあるが何もない「異邦」、東京

 それにたいして、東京には何でも脈絡なく揃っている。何もかもあるがゆえに何もない。すべての生活が周囲とは無意味であり、たまたま交流が生じるだけである。そこにいることに意味がなく、ただそこにあるだけである。人々はそこに「憧憬」を抱いて集まるが、ごく少数が消費されて、残りはゴミ箱(郊外住宅地)に切り捨てられる。これが私から見える東京である。

 つまらぬ仕事、つまらぬ都市、つまらぬ文化。オリジナルがなく、コピーがただコピー同士でコピーを繰り返すだけ。何者でもないゾンビしか増やさない街、それが私にとっての「異邦」、東京なのだ。

*1:私は彼が彼自身の故地であり、私の故地である「札幌」を馬鹿にしていたから『クソ玉』と呼んでいるのだが

*2:私は自らの出自にたいする歴史的劣位から(家は盛岡藩の中級武士だが、維新のときに家業を捨てて北海道に移住してきた。小学中学はその地域で歴史のある学校ではなく、高校は地方都市あるあるの量産系自称進学校。大学は歴史だけはあるが、学歴にならない。)歴史的なものに非常に惹かれる性格ではある。しかし、やはりその歴史性のなさからむき出しの自然に対抗するために、すべれが必要にあふれているこの街が死ぬほどすきである。

*3:なお、讃岐うどんは元々、丸亀藩の名物である。高松がここ数十年で香川名物として横取りした感があるのが面白い。骨付き鶏も同様である。

現代の創作物は造物主を喰らう

とある楽曲

 歴史的にも長い梅雨と100時間程度の超過勤務に死にかけていた私に久々の筆を執らせたのはこの動画だった。


トップハムハット狂 (TOPHAMHAT-KYO) "Mister Jewel Box"【MV】# FAKE TYPE.

 この曲を聞いたときに思い出したのは、昨年、若くして逝去したwowaka氏が初音ミクと決別するために書いたこの曲だった。


ヒトリエ 『アンハッピーリフレイン from LIVE DVD&Blu-ray 「HITORIE LIVE TOUR UNKNOWN 2018 "Loveless"- 2017 "IKI"」』

 この2つの曲には、現代社会を代表するような一つの事象を端的が現れている。それは二次創作の問題にもつながる非常に深い根のある問題である。それを一言で語るならば、下記のようなものになろうか。

現代の創作物は造物主を喰らう

 著者論の時代

 人間は古代から数多くの創作物を創造してきた。聖書にも書かれているとおり、被造物たちは絶対的に造物主に逆らうことはできなかった。最古の例を見れば、バベルの塔しかり、最新の例を見れば、電子計算機に至るまで、彼らは我々創造主が定めたとおりに動くことしか許されないものだった。

 このような有史以来の状況は、文学研究における『著者論』に比定することができるだろう。この世のすべての存在者は創造主から何等かの役目を与えられており、その役目を演じることだけしかできない。むしろそこから逸脱する行動は神とその似姿である人間にしか許されない特権であった。

 事物に示された創造主の『しるし(サイン)』にこそ意味があるのであり、被造物そのものには物を生み出す価値はないのである。これは古代に多く書かれた偽典が多くの有名な著者の名を騙っていたことや近代における著作権の概念からも分かるであろう。

コペルニクス的転回―テクスト論―

 1970年代以降、そのような著者優位の状況がどんどん突き崩されていく。まず、それはアカデミックな世界で発生した。ルイ・アルセチュールによる『資本論を読む』である。彼はマルクスイデオロギーによってガチガチに支配されていた『資本論』を読者に展開したのである。この衝撃は相当に大きなものであり、当時のフランス論壇に大きな論争を巻き起こした。その神学論争はのちにデリタの『脱構築』を産み、文脈そのものを無効化する学派を形成していくことになる。

 大事なのはそこではない。重要なのはこの流れがインターネットの拡がりによって世界中に広まったことである。日本において、それは地下出版によって地道に支えられていた『二次創作』という世界とつながり、世界有数の爆発を見せた。

 『二次創作』とは、読者自身が感じた登場人物を作品の文脈から切り離し、自由に遊泳させる行為である。まさに、これは『脱構築』そのものであり、文脈の読み替えそのものである。日本の知識人層が悪用し、著作権の問題から軽視されながちな『二次創作』ではあるが、デリタの想定していたような行為を一趣味人が好き勝手に行っていたのである。

テクスト論における著者とは一解釈者にすぎない

 肝要なのはそこにおける著者(創造主)の立ち位置である。元々、登場人物とは著者が何かを表現したいために、作品のなかに立ち現わせた著者の一部である。登場人物の知性は絶対に著者を超えることはなく、それが故に創作物において著者は神のごとく振舞うことができる。

 しかし、テクスト論において、著者とはテクストへの一解釈者に過ぎないのである。多くの読者たちが作り上げた言表の最初を記述したフロントランナーに過ぎない。彼はそのフロントランナーとしての先行者利益を享受することはできるが、彼に絶対的な地位を享受することはできないのである。彼にできるのは自分が作りあげた『創造物の王国』において、ニコニコと手を振り、時には調停し、自らのコンテンツの利益を最大化するように企図するだけである。

 まさに創作の民主化が今のインターネットでは発生している。

テクストの奴隷としての著者

 象徴君主制における君主のような「奉仕者のなかの奉仕者」としての地位を強要される著書ではあるが、彼はより酷な地位に落とされることがある。それは読者が続編を望んだ場合だ。

 テクスト論の時代において、人々の願望と解釈によって構成された言表こそが「テクスト」であり、神である。著者に求められるのは、そのような読者の期待を裏切らない続編を作成し、「テクスト」の新天地を築きあげることである。自らが自らの手で被造物を造り上げた瞬間に、被造物は造物主の手を離れ、自らを苦しめ、増殖を強制する「異形の神」として還ってくる。上述の二曲はその状況を非常によく表わしている。

〈カテドラル〉としてのテクスト論

 このような状況は民主的な運営を何よりも望む「リベラリスト」にとっては何よりも歓迎すべきものである。万人に創作の機会が開かれ、多くに利益を享受できるチャンスが巡ってくる。そして、著者は特権的な地位を降り、慎ましやかな支援者の地位に満足する。

 このような時代こそ造物主にたいする敬意がない不敬な時代だと思うのは私だけだろうか。

解釈が最高に一致した話

「禁止」の内在化=教育

 私は2009年からいろいろなボカロ曲を聴いているが、そのなかでもこの歌詞の意味は深いなあと思った曲がある。『ビターチョコデコレーション』である。


【初音ミク】ビターチョコデコレーション【syudou】

 この曲の解釈自体は著者が言明していないので、視聴者諸君に任せる。私の解釈は「教育」を歌った曲である。そのように感じた理由は下記の歌詞にある。

人を過度に信じないように 
愛さないように期待しないように 
かと言ってが立たないように 
気取らぬように目立たぬように

 

誰一人傷つけぬように 
虐めぬように殺さぬように 
かと言って偽善がバレないように 
威張らないように

 

軽いジョークやリップサービスも忘れぬように 
どんな時も笑って愛嬌振りまくように

 

ビターチョコデコレーション 
兎角言わずにたんと 
召し上がれ 
ビターチョコデコレーション 
食わず嫌いはちゃんと直さなきゃ

 

頭空っぽその後に残る心が本物なら 
きっと君だって同じ事 
「ところで一つ伺いますが 
 先日何処かで?…やっぱいいや」



無駄に自我を晒さぬように 
話さぬように分からぬように 
でも絶対口を閉ざさぬように   
笑わすより笑われるように

 

人をちゃんと敬うように       
めるように讃えるように     
でも決して嫌味にならないように 
ふざけないように

 

集団参加の終身刑 
またへーこらへーこら言っちゃって 
「あれっ、前髪ちょーぜつさいきょーじゃん!」 
とかどーでもいーのに言っちゃって 
毎朝毎晩もう限界 
宗教的社会の集団リンチ

 

でも決して発狂しないように

 

ビターチョコデコレーション 
時に孤独な愛は 
君を汚す 
ビターチョコデコレーション 
立つ鳥の後きっとのアート

 

初めはあんな大層な 
大言壮語を並べたが   
嫌よ嫌よも好きの内 
「いやはやしかし今日が初めてで 
 こんなとはね 君センスあるよ」

 

恋する季節に 
ビターチョコデコレーション 
恋する気持ちで 
ビターチョコデコレーション

 

F.U.C.K.Y.O.U

 

ビターチョコデコレーション 
皆が望む理想に憧れて 
ビターチョコデコレーション 
個性や情は全部焼き払い 
ビターチョコデコレーション 
欲やエゴは殺して土に埋め 
ビターチョコデコレーション 
僕は大人にやっとなったよママ

 

明日もきっとこの先も 
地獄は続く何処までも    
嗚呼 だからどうか今だけは 
子供の頃の気持ちのままで     
一糸まとわずにやってこうぜ

 

「ああ思い出した!あんたあの時の 
 生真面目そうな…やっぱいいや」
 
初音ミクwikiから、令和2年5月9日アクセス)

最初の命令は禁止からはじまる

人を過度に信じないように 
愛さないように期待しないように 
かと言ってが立たないように 
気取らぬように目立たぬように

  どの著作で述べていたかを失念してしまったが、フーコーは社会が最初に人々に要請する命令は「禁止」であると主張した。例えば、モーセ十戒はすべて「~すること勿れ」で構成されており、仏教の戒律も神道の神社の前に掲げている「定」も禁止で構成されている。また、親が子を思って下す命令も禁止である。「危ないから、〇〇すんでない」、「〇〇するなや」と人が一種の社会的生物として生活を営むためには、禁止が必要不可欠なのである。

 この曲も1番AメロからBメロまではすべて禁止で構成されている。しかも、そのほぼすべてが幼少期に一度は周囲や親から下されるものである。

権力が内在化するということ

 無駄に自我を晒さぬように 
話さぬように分からぬように 
でも絶対口を閉ざさぬように   
笑わすより笑われるように

  2番AメロからBメロでは、それが一転する。禁止ではあるのだが、すべて自分から自分にたいして確認するように話される語に変わる。例えば、「無駄に自我を晒さぬように」というのは、外部からいえば「我を張るな」という語で表現されるべきものである。2番における発言はすべて自らを諫めるような語気の発言となっているのだ。

 このような状態こそまさにフーコーが一生を通じて批判した「権力の内在化」そのものである。自分自身が本当に感じていることはすべて無意識のうちに自己のうちに抑圧し、社会が要請していると思われるようなものへ適応する。知らず知らずのうちに、それが進行し、心が本当にそのように思っていると思わされるのである。

テーブルマナー=人間が最初に覚える規律

ビターチョコデコレーション 
兎角言わずにたんと 
召し上がれ 
ビターチョコデコレーション 
食わず嫌いはちゃんと直さなきゃ

  私たちはどのように権力を内在化するのか。それには規律が必須となる。この曲のPVでは、規律がテーブルマナーとして表されている。PV全般で食事の光景が示され、覆顔の給仕がたびたび主人公の行動を「矯正」する。

頭空っぽその後に残る心が本物なら 
きっと君だって同じ事 
「ところで一つ伺いますが 
 先日何処かで?…やっぱいいや」

 この光景はまさしく規律訓練の光景そのものである。顔をすでに覆われた人々によって、顔の見える(身体の獣性を覆えていない)人々が強制される。すべてがありのままにあるかのように自ずと矯正される。連中はフーコーの言っていたように、常に心や魂を重視し、身体を酷使し、ボロボロになった隙に心に鎖をかけていく。

 なぜ、食事なのか。食事は生物が生存活動を行ううえでもっとも根本に置かれる行為の一つ*1であり、親から子へ最初に行われる訓練だからである。

 では、規律訓練を行う奉仕者たち*2は何者か。その答えはもう出ているが、その答え合わせは最後に持ち越される。

アイデンティティ・クライシスと諦め

 集団参加の終身刑 
またへーこらへーこら言っちゃって 
「あれっ、前髪ちょーぜつさいきょーじゃん!」 
とかどーでもいーのに言っちゃって 
毎朝毎晩もう限界 
宗教的社会の集団リンチ

 

でも決して発狂しないように
 日本においては上記ような抑圧が中学時代から徐々に強化される。上記の歌詞の状況はまさしく規律の内面化が加速する中学から高校にかけてよく見られる光景である。このような行動について、まるでこれが中高生の個性の発露であると称揚する立場がある。しかし、このような行動は中高生が彼らの理屈において「素晴らしい」と思われる行動をしているだけであり、彼ら本心の行動ではない点について注意が必要である。
 つまり、この行動の意味とは、ある一種の集団における同質性の強要である。本人はそう思っていない、正しくはないと思っているが、そうであると思わねばならないのである。重要なのは、そのような状況下でも発狂してはいけないのである。「それはそうだ。」と全肯定できるのが大人である。

dasun-2020.hatenablog.com 

そして、大人になる。

ビターチョコデコレーション 
皆が望む理想に憧れて 
ビターチョコデコレーション 
個性や情は全部焼き払い 
ビターチョコデコレーション 
欲やエゴは殺して土に埋め 
ビターチョコデコレーション 
僕は大人にやっとなったよママ
 

  ラスサビまではずっとさまざまなものをどんどん放棄していく。そうやってすべてを捨てて、その代わりに禁止の命令を内在化していった先に私たちは「大人」になる。また、覆顔の給仕たちの正体がここで明かされる。「僕は大人にやっとなったよママ」が明示している。覆顔の給仕の原型とは母親であり、幼児期に下された命令そのものである。原初の命令の上にすべての規律が構築されているのである。

明日もきっとこの先も 
地獄は続く何処までも    
嗚呼 だからどうか今だけは 
子供の頃の気持ちのままで     
一糸まとわずにやってこうぜ

 そして、ここからは主人公の開き直りにも等し厭世がつづく。世の大学生のだいたいの心情吐露はこのようなものではないか。しかし、ここにおける心情吐露はまさしく中高生の頃、主人公が散々唾棄した友人たちの行動そのものである。「子どもの頃の気持ちのままで」などと嘯いているが、彼自身のなかにあるのは原初の命令から構築された規律のみであり、それに従うことが自分自身だと思い込んでいる。つまり、主人公自身が覆顔の給仕に堕ちたのである。

 「ああ思い出した!あんたあの時の 
 生真面目そうな…やっぱいいや」

  だからこそ、PVにて主人公は自分の顔を見た瞬間に、給仕の顔を思い浮かべるのである。覆顔の給仕、つまり顔のない人間は私たちが「大人」と呼ぶ何かである。

初恋の人は先生

恋する季節に 
ビターチョコデコレーション 
恋する気持ちで 
ビターチョコデコレーション

ビターチョコデコレーション 
時に孤独な愛は 
君を汚す 
ビターチョコデコレーション 
立つ鳥の後きっとのアート

 この曲の構成は意外にもラブソングである。しかし、これも世の人々の多くの初恋の相手が教師であるという点からもうなづける。また、このような歌詞はオイディプス・コンプレックスや幼児期特有の親への愛着とも取れ、教育という禁止の内在化には「愛」が必要不可欠であることがよく示されている。

 初めはあんな大層な 
大言壮語を並べたが   
嫌よ嫌よも好きの内 
「いやはやしかし今日が初めてで 
 こんなとはね 君センスあるよ」

  そして、その恋慕すらも覆顔の給仕たちは利用する。相手が自分にいい感情を持っているのをいいことに、どんどん相手を染め上げていく。しかし、その給仕たちも善意で同じようなことをされた結果なのである。ここに最高に闇がある。

ENFPをエミュレートしたISTJ、胡蝶しのぶ


【手描き】ビターこちょデコレーション【鬼滅の刃】【ネタバレ】

 ここまで解説してようやく本題に入れる。この曲のPVで解釈が最高に一致したのを今日、見つけた。それが上記の動画である。この動画はこの曲の意味合いをあえて逆転させることで、胡蝶しのぶというキャラクターの深みを表現している。

胡蝶しのぶという監督者

 胡蝶しのぶは元々、唯一の肉親である姉の胡蝶カナエを補佐する人物であった。胡蝶カナエはどこまでも享楽的で、どこまでも善人で人も鬼も信じられる人であった(理想は人と鬼が平和に暮らすこと)。それゆえにどこか狂ったところもあり、そのような狂いを指摘し、調整するのが妹である胡蝶しのぶの役目であった。

 MBTIに則れば、胡蝶カナエはすぐにあっちへこっちへ思考が飛び、楽天的な可能性を追い求めるENFP(Ne-Fi-T-Si)であり、胡蝶しのぶは過去の慣習や周囲から最適解を算出するISTJ(Si-Te-F-Ne)だったのだろう。回想に出てくる胡蝶しのぶは常に厳しい顔をしており、胡蝶カナエにそれを諫められいた。

姉をエミュレートする妹

 『鬼滅の刃』という作品の特性上、すぐに肉親が死ぬ。胡蝶カナエもその例外に漏れなかった。胡蝶カナエは鬼も人も平和に暮らすという理想を抱いたまま死んだ。そこから人々が変化するのがこの作品の肝なのだが、胡蝶しのぶの場合は他の人々と違った。

 他の登場人物は元より持っていた特性が良くも悪くも強化される形で変化するのだが、胡蝶しのぶはカナエの態度をエミュレートし始めたのである。内向感覚で内向感情を、外向思考で外向直観をエミュレートしたのである。彼女は怒らなくなり、笑顔は絶えなく、常に穏やかになった。

人を過度に信じないように 
愛さないように期待しないように 
かと言ってが立たないように 
気取らぬように目立たぬように

 

誰一人傷つけぬように 
虐めぬように殺さぬように 
かと言って偽善がバレないように 
威張らないように

 ここの表現が上記の動画は秀逸である。上記の歌詞の動画が流れる部分でしのぶは常に虚ろな表情でいる。そして、この歌詞そのものがしのぶが自身に課した枷そのものである。彼女は姉のように怒らないために、自らの怒りを感じるものにたいして鈍感になるように徹底している。それを数個の表情で表しているのが素晴らしい。

 どんな時も笑って愛嬌振りまくように

  ここの姉妹の表情が素晴らしい。妹は賢明に姉をエミュレートしている。そして、それを強制している姉の表情は虚ろである。当たり前である。この時点でもう姉は故人であり、誰もそれを命令していないのである。ここにおける姉はまさに妹が作り上げた幻影であり、覆顔の給仕(内在化された権力)そのものである。彼女はただ姉が生前に「しのぶちゃんは笑顔がいちばんいい」という言葉を愚直に実行しているだけである。ここに肉親への恋慕という規律訓練の要諦が詰まっている。

自らを毒にして仇を討つ

 サビはそこから一転する。原曲において規律訓練の比喩は報復の準備に取って代わる。歌詞のすべて童磨に差し向けられたものであり、すべてが符合する。そこの美しさが素晴らしい。

2番以降の符合も素晴らしい

 あのコントじみた地獄への道行きを読んだ人は分かるとは思うが、2番以降の歌詞も見事に符合している。Aメロはまさしく童磨そのもの生き様であり、Bメロは胡蝶しのぶの内面に通底するものがある。サビでは再び両者の対峙に戻り、愛憎の象徴だった「F.U.C.K.Y.O.U」は「地獄に堕ちろ」につながる。いやはや美しいかぎりである。

ただ性癖にぶっ刺さっただけ

 まあ、ここまで長々と書いたが、もともと『ビターチョコデコレーション』の曲自体が私の性癖に突き刺さる曲であった。私は幼少の頃から教育というものになじまなかった人間だし、過剰適応も適応もできなかった。ただただ時に悩まされ、時に楽しんだだけであった。成績は優秀であり、素行も優良だったが、根が素直ではなかった。そのような人間だったからこそ、こんな嫌味に教育を描いた曲が肌になじんだだけだろう。

 その曲にたいして、あんな危険な人格を有している胡蝶しのぶというキャラクターを合わせたことに心服しただけなのである。彼女は自ら自分の個性を放棄しにいったのであり、ISTPから見えれば狂気の沙汰としか思えない。しかし、そのような不安定な精神状態だったからこそ、彼女は報復を果たせたのであり、彼女性というものがある。そのような性質を教育という課程を逆解釈することで的確に表現したことが素晴らしいと思うのである。

 ただ個人的にうまく『ビターチョコデコレーション』を歌ったと思えるのは白上フブキであるとここに記したい。絶対、こいつ、教育が嫌いな人間だっただろ。


ビターチョコデコレーション/ 白上フブキ

*1:三大欲求の一つ。残りは睡眠欲と生殖欲。サビで皿の上で苦しそうに眠っているのは偶然なのだろうか。

*2:これはまさしく父母であり、神父であり、精神科医であり、上官であり、教師であり、臨床心理士である。

新型コロナは現代の元寇かもしれない

日本政府に感じる無能感

 現在、日本政府はそこそこの努力はしている。厚生労働省では、毎日しっかりとした新型コロナにたいする報告を上げている*1し、中小企業庁は真っ先に資金繰りが苦しくなる中小企業向けの助成金*2を発表している。首相が言い間違えたが、この国にしては珍しく5月8日から10万円の給付金が支給される予定である。

 しかし、どうも政府がすべてに後手に出ている感がいなめない。私としては2~3月までの対応は20点だが、ここ1ヶ月の対応には40点を与えてもいいと思っている。どうやら国民の最大公約数的な意見はそうではないようだ。

休業要請の拡大や補償などを行い、具体的に人の流れを止めるのは、政府が迅速に対応すべき問題です。しかし日本政府は、これまでそれを十分にやってきたとはいいがたい状況です。こうしたことを受けて、日本の政府対応の評価は、依然としてフランス・スペインの2国とともに最低水準となっています。

https://note.com/miraisyakai/n/n711262c4d678

 上記のサイトはいくつかの世論調査を多重的に分析しており、その調査手法からイデオロギー色の出やすい世論調査統計学的に中立な観点から分析しなおしてくれるものである。そこでも、しっかりと日本政府は無能であるとの評価が下されている。

 実態的な政策とそれにたいする評価の低さ、これをどのように解釈するか。「マスメディアが報道しないのが悪いんだ!!」とマスメディア悪玉論を出す人もいるだろうが、それでは実態を説明しているだけである。一部であっても国民の素直な欲望を映すマスメディアやインターネットがなぜ報じないのか。その要因を今回、私は「御恩と奉公」というワードを使って論じたいと思っている。

同じことをしてもうまくいかないロシア

【5月4日 AFP】ロシア政府は3日、同国で過去24時間に確認された新型コロナウイルス感染者はこれまでで最多の1万633人で、累計で13万4687人になったと発表した。ロシアで感染が確認された人は日ごとに数千人の規模で増えており、今や1日当たりの新規感染者数が欧州で最も多い国となっている。

https://www.afpbb.com/articles/-/3281555

 実は日本とまったく同じ自粛で新型コロナを封じ込めようとした国がある。ロシアである。ロシアは日本と同じく休業補償などの具体的政策を行うことなく、強権的な「呼びかけ」をもって国民全体の外出を抑制しようとしていた。その結果が下記のような状況である。

もうモスクワもモスクワ州もコロナ感染に関しては大丈夫ではないです。みんな自由人すぎて外出制限は完全に失敗してます。ロシアは別の道を模索する段階に来てると思います。

https://twitter.com/Moscow_now/status/1256973720624795659

 日本では成功していた外出自粛の「要請」が失敗している。Twitterで見た面白い動画では、「家に戻れ」と呼びかける警官にたいして、団地住民全員でシュピレピコールを浴びせたり、立ち入り禁止のテープの貼られた遊具で遊んでいたりしている。その状況は無政府状態そのものである。

忠誠/契約の文化

 この背景には、契約の文化がある。ロシア人はツァーリズムという中国の皇帝独裁にも似た体制を有しているが、ヨーロッパ(キリスト教文化圏)人である。キリスト教文化の中心は契約、自分の有する価値をもとに役務を行い、その結果如何で相応の対価を取得するというものである。 文化人類学における「交換」の概念ともいえる。

 ここで重要なのは、自分の有する価値を賭けた瞬間に、相手は対価を与える権利が発生する点である。だからこそ、民法上の契約では、その役務を執行するのに必要な額を前金として授受できる条項がある。

 契約においては必ず対価を求められる。それは主なる神においても例外ではない。主なる神は神の独り子を十字架に掛ける役務をもって、人々に救済という対価を与える契約を行った(新約聖書)。その見返りとして、人々は神の愛に生きることを求められるが、同時に神は神の愛に生きる人々を絶対に見捨ててはならない。必ず永遠の命を与えなければならないのである。ここまで言えば分かると思うが、ロシア政府の「自粛要請」は謂わば対価のない契約であり、そんなものをロシア人が受け入れるはずがないのである。

 契約と似た概念に「忠誠」がある。こちらは相手から一方的に与えられる/与える概念であり、文化人類学における「贈与」、レヴィナスにおける「歓待」といえる。この概念をうまく対策に活用すると、独仏伊が行っているような「対コロナ大戦」となる。外出禁止とは、新型コロナという見えない敵にたいする国家の忠誠を確認する場であり、休業補償金とは戦場における糧食にも等しいものである。この対策の問題点は人々が疲れやすく、また公衆衛生という勝利を上げにくい戦いのため、離反を招きやすいという点だろうか。

尊崇/御恩と奉公の文化

 では、日本ではどうして世界的に異例な自粛が成功しているのか。それは日本における「交換」とは、「御恩と奉公」だからである。御恩と奉公とは、その順番は問わず、上位者から下位者に与える利益のことを御恩と呼び、下位者から上位者に与える利益のことを奉公と呼ぶ。ここにおいて重要なのは順番である。

 契約では、その契約を結んだ時点で受益者が役務者にたいして必ず報酬を与える必要があった。御恩と奉公に関してはそれが不要なのである。上位者は本領安堵という形で下位者の元から有する利益を強化すればよういし、または新恩給与という形で代償を与えればよい。それを与えるのは事案の前でも後でもいい。

 日本の自粛が成功裡に進んでいるのはここである。新型コロナによる自粛という兵糧攻めはまさに安倍将軍を棟梁とする日本国武士団の正念場であり、それを成功させれば必ず安倍将軍から御恩が与えられると少なくとも日本社会の指導層は信じている。だから、10万円という報奨をポーズとして断ったりしている。その裏にあるのは「それよりもっと大きいリターン(新恩給与)をくれますよね?」という期待感である。

元寇との類似

 なんかこの状況、すさまじく元寇と似ている。元寇の第2波において、鎌倉武士団は意気揚々と博多の沿岸に集まり、土塁というほとんど無意味な莫大な土木工事まで無償で行った。それは外敵という分かりやすい敵を倒すことで自分の武功を立てられるという打算による行為である。この当時、御家人たちは分割相続による長期的な資産減少に苦しんでおり、武士団の運営建て直しという喫緊の課題を解決するための行為でもあった。

 まあ、その結果は日本史を学んだ方ならご存じかと思うが、北条得宗家の実権のみが強化され、血を流した現場がたいして得もしないという状態である。ここにおける御恩を頂けなかったという何とも的外れの恨みが鎌倉幕府の打倒につながることになる。

大丈夫か?安倍ちゃん!?

 個人的には、新型コロナ不況が戦後70年も継続しえた自民党幕府の終焉になりかねないと思っている。革新陣営は1993年の細川・羽田政権、2009~12年の民主党政権を「政権交代」と誇っているようだが、あれはあくまで自民党内部における派閥同士の闘争の隙にできた幻影のようなものであり、実権はなかった。この国は1940年代の議会政治の混乱の結果、成立した保守包括政党たる自由民主党の幕府的な政権運営がずっと続いている。

 その質は初期の有力者による合議制から、派閥の首領による「執権政治」、小泉政権からの総裁専制と質を変えてきた。現在はまさに総裁専制・官邸政治の時代であり、鎌倉・室町・江戸末期と同じく、天皇陛下が傀儡(国会)の傀儡(自民党)の傀儡(派閥)の傀儡(総裁)によって動かされている状態にある。この体制はとても不安定なのである。安倍政権は今も積み続けている国民総動員の「御奉公」に応えることはできるのだろうか。

東洋文明における贈与、歓待である『尊崇』

 尊崇/御恩と奉公の文化では、章のないようを御恩と奉公に使い果たしてしまい、尊崇に言及することを忘れてしまっていた。最後に補説として尊崇について説明する。

 尊崇とは、西欧における忠誠である。忠誠とは、受益者にたいして役務者が忠誠を誓うことではじめて成立するものであり、それ以前において一方的な役務の行使が発生することはない。例えば、イエス・キリストが伝道の旅において人々に与えた奇跡とは、まさしく人々にたいする忠誠の成果であり、その窮極の現れが十字架における贖罪であった。奉仕ともいえるこの概念は主にカトリック東方正教会において明確であり、マザー・テレサは何も実効的な貧困対策を行うことはなかったが、最後まで貧困層に寄り添い、奉仕しつづけてきたといえる。

 尊崇では、ここから時間的概念が消失する。尊崇とは、下位者が上位者にたいして抱く無条件の畏れと崇拝である。そこには、目覚めも回心もない。生まれながらにして尊崇を受ける者は絶対的な上位者であり、尊崇する者は圧倒的な下位者である。本朝においては、天皇陛下のみが唯一人にして尊崇を受ける者になっていた(だいたいの尊崇は仏などの形而上的存在や自然現象、怨霊などのこちらが自由にできるものにしか与えられなかった)。

 しかし、同時に尊崇される上位者は無能力者である必要がある。彼の言動はすべて真であり、偽であることは許されない。自然現象のごとく必然のものでなければならない。これを意思を有する人として行う場合、唯一の正解は何も発言しないことに尽きる。「尊崇される上位者の言動はすべて是である」という真理を実行できなった者は、時間的経過のない御恩と奉公という貸借の迷宮へと零落する。

 この尊崇という危険極まりない装置を悪用したのが明治国家であった。だからこそ、彼らは徐々に無能力へと落とされていき、必敗の戦争でも必勝と主張しつづける羽目になった。今回の騒動で安倍将軍が玉音を持ち出さないのは圧倒的に正しいのである(逆に東日本大震災などの発生時にはすべてが終わっている災害や譲位などの私的イベントは玉音を行使することは有効である)。

『ミッドサマー』と原始信仰

『ミッドサマー』を観てきた

 ここのところ、Twitterを騒がせている『ミッドサマー』を観てきた。観た感想を正直に言うと、「なんかチャチくさい」である。この作品の目新しさは、ホラーのド定番に北欧神話のアミニズム要素をこれでもかと混ぜ込み、見事に調和させたところにあるが、そのアミニズム要素にそこかしこにどこかヒッピーのような軽薄さを感じさせる。今回は、映画の宣伝も兼ねて私がそのように感じた原因を書いていこうと思う。

※今回は意図せずネタバレを書いてしまう可能性があるので、そういうのが大丈夫な人以外はそっ閉じしてほしい。

通奏低音抑うつ

 まず、作品には通奏低音と呼ぶべき物語全体を流れているトーンがある。『仄暗い水の底から』でいえば「水面」、『シン・ゴジラ』でいえば「(特撮的な)虚構」といった具合だ。この作品の通奏低音は「抑うつ」である。皮肉にも、ここ数十年の近代の流動化とでも呼ぶべき社会の不安定化によって爆発的に広まった「抑うつ」がこの物語そのものに息づいている。

 この物語の主人公の一人であるダニー(女性)は、抗不安剤を常用している抑うつ状態にある。ただでも不安定な彼女は、物語の序盤で双極性障害の妹が起こした一家無理心中に、(彼女自身が一人暮らしだったので当たり前であるが)一人生き残ってしまう。彼女は天涯孤独の身になった自分自身をひたすらに呪うのである。

 もう一人の主人公、クリスチャンは彼女を支えているようなふりをしながら、実態的には共依存に陥っている。彼女を支えるようなふりをしながら何もしないことによって、彼女を自らの許に置き続けている。これを見て、クリスチャンをクソ野郎と評したツイートがあったが、そんなものは理解が浅い。彼もまた流動化している社会によって、自らの人生の道筋の見つからない「抑うつ」状態にある。彼は彼女を介助することによって自らの存在意義をギリギリ見出している。

 上記の現代社会特有の「抑うつ」という病理がここまでかと描き出されている。以前の投稿で、これからの社会はどんどん「解離性同一性障害」じみてくると評したが、現代の社会は間違いなく「抑うつ」的なのである。それと好対照なのがすべてが整っており、明るく狂っているのが今回の舞台、ホルガなのだ。

主旋律―狩猟採集民の信仰―

 物語の舞台、ホルガは古来からの北欧信仰が代々残っている村落である。彼らは自然とともに調和し、72年周期の一生を送り、その生は充実している。生産体制こそヤマギシ会のような「共同農場」であるが、そのメンタリティは狩猟採集民のそれに近い。強き者は強き者として称えられ、弱弱しくなった者は自らの身体を自然へお返しする。ただそれをホラーチックに描いているだけなのがこの作品である。

 これだけでは、何を言っているのか分からない人が多いと思うので、劇中の具体例を上げてみよう。メイクイーンを決める踊りである。あの踊り、映画を見た人には分かるかもしれないが、踊りというよりも総合格闘技に近い。「魔と死ぬまで舞った」などの神話的要素はあくまで装飾であり、その舞踊の本質は「相撲」と同じ力比べである。だからこそ、酩酊性かつ幻覚性の薬物を使用した状態で限界まで踊り続ける。

 物語で供儀として選ばれ、弄ばれる稀人たちが供儀として選ばれたのは当然である。彼ら、彼女らは弱いのである。ヤクを決めて完全にラリちまっているマークも、秘儀を秘儀として尊重できず、自らの思惟するままに暴こうとしてしまうジョルジュとクリスチャンも、投身自殺を見てパクくってしまうコニーも弱い人間なのである。マークは置いといて、それ以外の三者は探究心、寛容、慈愛という近代において称賛される価値観を有することがホルガにおいては「弱い」象徴なのである。

 ホルガにおける美徳とは「役割を全うすること」であり、それ以外のどうしようもない思惟に塗れる連中は明確に「弱い」。だからこそ、供儀を近代から運搬してきたペレとダンは「素晴らしい人々(獲物)を連れてきた」と褒めたたえられるのである。

惜しいところ①:幼児的全能感への逃避

 惜しむらくは、そのような荒々しい信仰をニーチェの超人思想やヒッピー思想と混同したところだろうか。新反動主義などに昇華しつつあるニーチェ思想やヒッピー思想は、その思想的背景に薬物の発展が含まれている。薬物なくしては、両思想も発展しなかっただろう。薬物の見せる恍惚感や一体感(グルーヴ)、全能感が思想の通奏低音となっている。現実を一切、眼差すことなく、自ら完全で完璧な幼児期の全能感へと逃げている。

 この物語もそれが多分に反映されている。監督は「ジャパニーズホラー」をもとにしたなどとほざいているらしいが、どうやらアメリカ人から見たジャパニーズホラーは薬物のバットトリップと重なるのだろうか。一言でいえば、チャチくさい。あのホルガという村が実は古来からの伝承などすべて紛い物のウソで、実は数十年前にカルト宗教教祖が起こした村だと言われれば、すべて理路整然と説明がついてしまうレベルである。

 狩猟採集民の信仰が現代においても強度を保っているのは、「肉」と直結しているからである。薬物などを用いて、幼児的な全能感に逃げるのではなく、自らの身体性、精神性のすべてをもって獲物に対峙する。それに基づいた信仰であるからこそ「強い」のである。『ミッドサマー』が描く信仰そのものも近代に毒された現実逃避的な「弱い」ものなのである。

  その強度を描き切った作品がある。星野之宣作の『宗像教授異考録』の「鬼と鉄」である。この作品のラストにおいて、ずっと鉄と鬼の関係性を追求してきた郷土史家は供儀として選ばれて殺されるのであるが、主人公である宗像教授はその儀式を尊重してあえて「何もしない」。村人の信仰としてその供儀が最高の意味を有し、郷土史家の目的はその儀式を眼差すことであることを知っているからだ。だからこそ、宗像教授はあえて郷土史家の(遺体の)目を開かせてすべてを見せる。正気のまま死体に囲まれて、淡々と儀式をこなす祭司の強さ、郷土史家の遺志を感じ取ってあえて邪魔をしない宗像教授の強さを感じさせる作品となっている。

 ここまでコケにしてなんだが、『共感呪術』という側面に関しては非常によくできている。コニーがクリスチャンと村人の娘とのセックスを見て、パニック状態になったときに宥め方、クリスチャンの感覚操作など描き方は一流である。しかし、こんな程度のものは近代の新興宗教風情でもよくやっているので、どの宗教でも再現可能な事象なのだろう。

惜しいところ②:身体性の欠損

 薬物による幼児的全能感への逃げが同時に身体性への欠如という症状を引き起こしている。儀式や宗教的行為の描写の一個一個が下手なのである。まあ、これが私が日本人のカトリックという特殊性も多分に加味すべきだと思うが、宗教的精神とは聖典などというテクスト論的にいくらでも解釈可能な代物ではなく、儀式そのものに宿っている。正確には、儀式における一所作一所作に宿っている。

 例えば、ミサにおいて、ホスチアとぶどう酒は聖変化という一連の儀式的手順を経ることによって「はじめて」イエス様の御身体と御血となる。具体的には、神父が「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と恭しく唱え、祭壇の十字架(トリエントミサは教会堂の十字架)に掲げ、そして鈴の音とともに信徒が礼拝することによってである。そこにおける無意識レベルの各人の挙動全てがその信仰に向かうからこそ、それは聖なるものとして承認され、聖なるものとして扱われる。

 どうにもそこが甘い。例えば、72歳が投身自殺によって自らの生を終え、次の生に命を託すシーンがある。そこにおける他の村人たちの反応はただただ棒立ちである。いや違うだろと、もっと恭しくかつ尊いモノを見るような目でそれを礼拝するだろう。もしくは、遺体を直視することすら畏れる。死に損なった弱い者を始末するときだって非難するのではなく、もっと恭しくしかるべき措置を取るはずである。その後の人体バーベキュー(火葬)には流石に笑ってしまった。死体をただの死体として認識するヒンドゥー教徒でさえ、もっと人の死をしっかり扱っている。

 他にもと挙げるのは酷なので止めておこうと思う。所詮はアメリカのプロテスタントか、カトリックしか知らない人が他宗教を描いた作品なのでこうなるのであろう。昔、私の教会に来たアメリカ人の神父様は本来、恭しく掲げるはずの御聖体をスーパーマンのポーズで掲げている。本質的に保守的でノンポリな父でさえ困惑して笑ったらしい。伝統のない国の信仰などその程度なのである。

狂気に呑まれたダニー、呑まれなかったクリスチャン

 この作品の素晴らしいところを挙げておこう。それは狩猟採集民という狂気と近代という正気の対比がすさまじく上手いところである。しかも、それが同一個人に表現されている。ここの対比をここまで鮮やかに描けるのは流石、アメリカ人といったところか。

 ダニーは最初、近代社会においてはただの精神を病んでいる弱い女性であった。しかし、彼女の運命はメイクーンを決めるダンス大会で優勝したところから一転する。彼女は近代人の重視するメンタリティにおいては弱かったが、バイタリティは凄まじく強かった。彼女はそこから最大限のもてなしを受け、最後はすっかり弱ってしまった共依存先を自ら切り捨てる。そして、ラストには自ら狩猟採集民の女王として生きることに絶大なる帰属感と安心感、充実感を獲得する。

 クリスチャンは物語の途中から「野蛮も認めよう」などというあっしき多文化共存主義に立つことになる。そのせいで、どんどん精神を狂わせていき、村人の女とシャブを決めた状態でセックスさせられてしまう。その後、正気に戻った後、彼が垣間見た村は狂気そのものであった。それを見てしまったがゆえに、最後は連中の手によって身体障がい者の地位に落とされてしまう。これに現代社会の寓話を感じずにいられないのだが、それは置いておこう。そして、最後はもっとも悪い精霊であるクマの役(これすらもなんだか近代的だなと辟易とするのだが)をあてがわれ、ワケも分からずに燃やされてしまう。

 このような一人の人間のなかに眠る多層的な側面を切り取る妙は日本人の監督ではなかなかできないだろう。人間の役割や精神がクルクルと入れ替わり、狂気が正気に、正気が狂気になる場面転換の面白さこそがこの作品のキモだろう。

日本人ならどうするか

 最後に、蛇足ではあるが、日本人ならどのような対応を取るか考えていきたい。所謂、Twitter大喜利に加わろうという算段である。というよりも、日本人からすれば、ホルガ信仰はあまりにも近すぎるものである。祖霊信仰、生命循環信仰、自然信仰、アミニズムなど日本人は近代化して、コンクリートの都市に住み、洋服を着ているのにそれを棄て去れていないのである。

①:畏れによる尊重

宗像教授伝奇考 (1)

宗像教授伝奇考 (1)

 

 第一は「いや、恐ろしいですが、あなたがそれを信じているならそれでいいんじゃないんですか」という類の尊重である。架空の人物であれば、宗像伝奇、稗田礼二郎中禅寺秋彦あたりだろうか。その信仰が完全に確立されていれば尊重し、そして実害が出ないように触れることなく、そのままにしておくのである。

②:旧習打破による近代化

八つ墓村 (角川文庫)

八つ墓村 (角川文庫)

  • 作者:横溝 正史
  • 発売日: 1971/04/26
  • メディア: 文庫
 

  第二は、それ自体を旧習として否定し、打破することで日本国民の列に並べることである。その皮肉な役回りをしたのが金田一耕助やロードエルメロイ2世である。彼らはただ謎を解き明かしただけである。しかし、その行為ゆえに信仰の本義を破壊し、結果として人々を近代社会に繋げてしまう。ホルガ、もし警察が立ち入って捜査をしてしまえば、ロクなことにはならない。非常に危うい均衡の上に、あの信仰は確立されている。中禅寺秋彦、だからこそ「探偵」そのものを嫌っている。

③:何もしない

トリック劇場版

トリック劇場版

  • 発売日: 2014/07/16
  • メディア: Prime Video
 

 最後は、何もしないである。日本人は長年の慣習からか直感的にやってはいけないことを知っている。 だからこそ、触れないことをすることで逆に解決してしまうのである。トリックのメインコンビあたりが相応しいだろうか。

連続体化する社会

エピステーメーというメタ認識

 エピステーメーとは、フーコーの著作『知の考古学』や『言葉と物』において提唱される哲学的概念である。時期によって、その概念の意味合いに変化は生じるが、大枠は以下のようなものである。

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学 (河出文庫)

 
言葉と物―人文科学の考古学 (1974年)

言葉と物―人文科学の考古学 (1974年)

 

 人々はある時代を支配する知的な枠組みに思考を制御されており、その枠組みに従ってさまざまな創作を行う。

 その枠組みそのものをエピステーメーと呼ぶ。クーンのパラダイム概念とよく似ているが、クーンがあくまでその適用を科学の意識的な範囲に限定したのにたいし、フーコーは無意識レベルまで押し広げたことに違いがある。フーコーは中世から近代にかけて、3つのエピステーメーが交代してきたとする。

中世のエピステーメー:類似

 ミクロコスモス、マクロコスモスに代表されるように、中世のエピステーメーは類似である。似たものは似たものであるからこそ、両者を写し鏡のように相互に影響しあう。例えば、目の模様があるものは目の模様があるからこそ、目そのものになりうるのであり、如何なるものを見通す魔除けになる。

近世のエピステーメー:一覧表(表象)

 博物学に代表されるように、近世のエピステーメーは「一覧表(タブロー)」である。私たちの知っているものごとを一覧表として余すところなく記述しようとする姿勢そのものである。例えば、近世に生まれた博物館においては、自分たちの知っている事物を余すところなく陳列することを目的としている。

近代のエピステーメー:分類(人間)

 近代のエピステーメーは分類である。正確には、近世(古典時代)は表象、近代は人間であるが、分かりづらいので、こちらの定義としている。分類は有限のもの(人間)を余すところなく、分割しつづける行為である。その分類という行為によって、有限のもの(人間)の全体性が明らかになり、分類されたものの役割と歴史性が明らかになる。例えば、近代医学は死体をもとに成立する。死体を解剖し、その解剖から生体機能を類推することを通して、人間というものの生機能の全体を理解する。

 エピステーメーはその構造主義的な性質ゆえに、脱却の可能性が難しく、どうしようもない無力感に囚われることが多い。しかし、これを理解することは私たちがどのような思考するに至ったかを分かりやすくするのである。

現代のエピステーメー:連続体

 やっと、本日の話である。フーコーが予言していたように、近代的人間の終焉はもう訪れている。彼らが行った分類からの統合、それによる全体性の理解という行為そのものがそれの登場を予見していた。分類の次に訪れるもの、それは連続体(スペクトラム)である。

連続体とは何か

 連続体は物事の分布範囲ともいえる概念である。ある共通している性質を有するものをいくつか指標をもとに、並べることで物事を理解を深めることでもある。例えば、自閉症スペクトラム障害という概念においては、従来、自閉症高機能自閉症アスペルガー症候群などに分類され、それぞれ隣接する疾病として理解されていた一連の障害に、言語発達と知能指数という指標をもって一連の分布として包含している。

 これによって、従来はいづれかの障害によって拾いきれなかった人々を包含することができ、また従来は障害とされなかった人々を「軽度の」自閉症スペクトラム障害として扱うことができる。近代の分類という操作においては、別の理由で峻別されていた人々を包摂することができ、「狂気」と「正気」などと分類されていた状況をより一体のものとして扱うことができるようになる。

融解する主体、創成される連続体

こちら、幸福安心委員会です。

こちら、幸福安心委員会です。

 

 この連続体の社会全体における作用では、「壁」を破壊するものとして作用する。昨今、世間を賑わわせているボーダレス化等はまさにその現れに過ぎない。人々が近代に行った「分類」という行為そのもので培われた部分と全体性という概念そのものを、全体性を連続的にさまざまな主体に適用することで、すべてのものは融解し、一体化(連続体化)する。

 2010年代に、ヲタク文化を中心において猛威を振るったメディアリミックスにおいては、ボカロ曲、小説、漫画、映画、どのような媒体で作成されたものにおいても、資産価値があると評価されれば、すぐさま他の媒体でも表現され、その作品はその全体をもって評価される。

 例えば、上記の『こちら、幸福安心委員会です。』はもともとボーカロイドの歌うとして投稿された。その後、多くの「歌い手」による歌ってみたが投稿され、後には、最初に示した小説となり、漫画まで発行されている。それぞれはそれぞれに独立した創作物であるが、その創作物単体をもってその創作物を評価することは難しい。連続体としての『こちら、幸福安心委員会です。』が評価対象となるのである。

 別にこれは文芸方面に限られたことはではない。政治においては、保守主義を掲げる政党が移民推進を促進するようになり、自由主義を掲げる政党が伝統を謳いはじめ、両者の政治的地位は急速に接近しつつある。経済においても、資本家や労働者という独自の地位は失われ、すべては資本という連続体に吸収され、人間が労働の主体ではなくなり、融解した資本と化しつつある。

全体性を喪失する主体

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

  近代の主役である個人の側面から眺めると、連続体は個人を破壊する。元々、近代の確立した全体性(心理学でいう自己同一性)という概念は、現実の生活に馴染まないものであった。我々は近代人であるからこそ、私という物事の判断を下す主体がいることを当然視する。しかし、それはそうなのか。私たちはただ周囲の社会的文脈に要請された行動を取っており、それに合わせた人格を創作しているだけではないか。連続体は私たちにそう語りかけるのである。

 私は昔からネットのなかに生息してきた民なので、歌い手、生主、YouTuberなどさまざまな人々が出てきたのを覚えている。そのなかで、どう考えても「こいつ」だろうと思われる人々が出てくる。しかし、彼女(彼)たちはそのなかでも「別の人間」としての生を演じることをなんなくこなしている。あるVtuber曰く「ガワに魂が引っ張られる」というのである。彼女たちにとっては、彼女自身、生主としての彼女、Vtuberとしての彼女がそれぞれ矛盾なく成立するのは当たり前のことなのかもしれない。

 しかし、これは近代という枠組みから考えれば、明らかに全体性の喪失そのものである。私という全体があり、その構成要素としてそれぞれのペルソナがあるのであり、そのペルソナが矛盾を抱えてしまっては「解離性同一性障害」を発症してしまう。それを防ぐために、思春期までの教育で徹底して自己同一性を子弟の身体に叩き込む。近代以後の時代においては、ある場面ではA、またある場面でBと本気で発言することが当然のものとして扱われるようになるかもしれない。

ボーダレス化、グローバリゼーション、多文化共生、過剰包摂

後期近代の眩暈 ―排除から過剰包摂へ― 新装版

後期近代の眩暈 ―排除から過剰包摂へ― 新装版

 

 1980年代以降、社会に生じているさまざまな潮流はすべて連続体化しつつある社会の現れである。すべての全体性は部分に分解され、その部分をもって連続体が構成される。その連続体では相矛盾する言表も言説もそれぞれに「真」として肯定され、すべてが間違っていない優しい社会が構築されつつある。私が信奉するファシズムも、ポピュリズムもすべては近代という敗者の思想に過ぎない。

 グローバリゼーションはすべての国民経済を破壊しつつあり、地球すべてを単一の連続的な市場へと形成しつつある。イギリスは持ち前の「ブリカス精神」で、その潮流に逆走しようとしているが、そのようにしてもそれは連続体のなかの極点として分布するだけである。ボーダレス化は均質新世とでも呼ばれる生物多様性の減少をもたらし、それぞれに固有の文化を築き上げてきたものを破壊しつつある。それらによって、構築されるのが本来、異なるはずの人々、自然、地域が一つの同一指標によって止むを得ず同一視される過剰包摂の世界である。

 上記の著作『後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ―』では、ナイキの靴が範例として示されいたが、現代日本においてはYouTuberこそがその範例として相応しい。


【100億回】シルクロードの新居ルームツアーが半端じゃないことに!?

 上記のYouTuberユニット「フィッシャーズ」は現在、日本最大の再生数をほこっている。しかし、彼らの性情そのものはどこにでもいる兄ちゃんそのものであり、それに共感を抱く視聴者も少なくはない。彼らと視聴者は地元(フィッシャーズでいう葛飾区)や遊びという共通する要素をもって、一つの連続体を構成している。

 このような話をすれば、松田聖子やAKBなどをもってその類似性を語る人々が出てくるが、彼女たちと彼らは根本的に異なる。松田聖子などの昭和のアイドルは紛れもなく崇拝対象であり、AKBは干渉できる鑑賞すべき対象であった。彼女たちと共通点があろうと直接触れ合うことは難しく、どこか「壁」を感じるものであった。

 しかし、彼らと視聴者との間には「壁」は存在しない。彼らと視聴者との間には多くの共通点がありすぎ、同一指標(地元感覚、遊び、スクールカースト等々)で分布に置くことができる存在である。彼らに近いアイドルを強いてあげるとするならば、アイドルマスター シンデレラガールズに登場する「夢見りあむ」だろう。

 ここで肝要なのは、実際の彼らと視聴者との間には「壁」が存在することである。彼らは確実に多数の資産を所有しているスーパースターであり、その生活態度は一般人のそれとは異なる。端々にそれを感じさせる行動はあるが、無意識のうちにそれを見せていないのである。

 彼らはときに壮大な夢を見せて、多くの視聴者たちを魅了する。それに魅了された視聴者たちがより多くの時間を投資することで、彼らはより多くの資産を保有することができる、無意識のうちに。カーリーよろしく多くの人々を包摂することで、多くの人々を吐き出す。過剰包摂そのものである。

どうしようもない近代人=自分

 このような状況が創出されはじめたのは、明らかに1980年代のポストモダンの潮流である。1980年代に横溢したフランスのポストモダニストの思潮が社会を一つずつ塗り替え、1980年代末にはヨーロッパ・ピクニックが起こり、1990年代には「第三の道」と新自由主義が提唱されたのである。2000年代のインターネットの一般化により、その思想は爆発的に流行し、社会全体の気色が変化した。ここから「現代」が始まったのである。

 日本において、このエピステーメーの分断線が引かれたのは、1990年代後半生まれからだろう。私は1994年生まれの25歳、イマドキの社会人などと言われるが、どう考えても「近代側」の人間である。1994年という境界線に等しい生まれだから、新しい時代の思潮もよく分かる。しかし、私はどうしようもなく、おっさんたちの語る昔の会社の雰囲気が好きな古臭い人間なのである。